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2006.12.18

手話・口話論争

今さらのように、ろう児童に対する「手話・口話(読唇)」教育論争が起こっていることを知人から知らされた。事の発端は、読売新聞の「聞こえなくても可能性は無限」という特集に森川佳秀さんという人が寄稿した「聾学校の言語教育、手話よりも「読唇」優先で」という記事だ。記事の中で森川さんは、ろう学校における手話教育は読唇能力の獲得を妨げ、日本語の習得を難しくするのでよくない、という主張を展開している。この主張に対し、ろう者である木村晴美さんのブログなどで反発の声が広がっている。

私は言語学を専門としているが手話に関しては門外漢であるし、ろう者でもないので、断定的なことは何も言えないのだけれど、森川さんによる手話(日本手話のことだと思う)の描写は、いささか的外れであるように思う。

  • 手話は「顔の表情と指文字を併用」すると書かれているが、手話の構成要素のうち、手に関するものが指文字だけではなく、例えば手の位置や動きも含まれることは、手話で話している人を見れば、だれでも気づくことではないだろうか。
  • 「語彙数は8000語」と言うが、その数は、おそらく、現存の辞書に収録されている語の数であって、調査研究が進んでいるとは言い難い言語において、辞書に載っている語がすべてではないことは、だれが考えても明らかだ。日本語だって、辞書に載っていない言葉がいくらでもあるではないか。
  • 「明確な文法規定がない」とはどういう意味か。1980年代以降、手話の言語学的な分析は着実に行なわれてきており、その文法記述は精緻化してきていると私は信じている。逆に、日本語(あるいはいかなる音声言語でも)の文法理論で「文法的な文の集合をすべて、そしてそれのみを生成する規則または原理」の規定に成功しているものがあるとでも言うのだろうか。
  • 「文章の関連づけが曖昧で情緒的に理解してしまう」という部分は、私の理解の範疇を越えていて、何をどう反論したらいいかも見当が付かない。
  • 言語能力の習得において、大脳のウェルニッケ中枢の一部、「角回」の発達が不可欠であり、そのためには音声言語の学習が必要であると言うが、失語症をめぐる脳生理学的な研究によれば、手話話者がウェルニッケ中枢に損傷を負った場合、手話の運用能力に障害が生じることが知られている。つまり、手話話者も音声言語話者と同様にウェルニッケ中枢に言語処理能力の局所化が起こっていることが知られているわけである。

このように、言語学的な観点からは、森川さんの論は説得力を全く持たないと思われるし、言語教育的な観点(手話を先に学んだ話者が日本語の学習に困難を来すか否か)についても、しっかりとした考察が必要とされているように思う。

それにも増して問題なのは、ろう者が日本の社会で生きていくためには、その主流の言語(日本語)にすり寄らなければならない。それを実現するには「手話を使わせないため両手を縛って教え」ることも許されるとする考え方だと思う。「手話を身につけるのなら中学生でも遅くない。その人が将来、手話を使うか口話を使うか、その選択権を奪ってはならない」と言うが、逆に、幼い時期に、手話によって他のろう者と語り合い、その連帯感(文化、アイデンティティ)を育むという権利は奪われていいのか。おそらくここには、私には思いも寄らないほどの大きく深い問題が隠れているのではないかと思われるが、この部分での森川さんの主張はあまりにも公平性を欠くように私には思える。

ろう者だけでなく、マイノリティとかサバルタンとか、いろいろな形容ができると思うが、それらの人たちを周辺に追いやり、語らせないようにし、黙って一方的な同化を強いることによって近代国家は形作られてきたと言うこともできるだろう。そういうことに気づく時代に私たちは生きているはずだ。そう考えた時、手話教育否定論は、激しく時代錯誤的であると言えると私は思う。

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2006年 12月 18日 午前 12:48 | | この月のアーカイブへ

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手話サークルでは恒例のクリスマス会も終了し、今年の活動は終わりました。 今年もあとわずかなので、今年 続きを読む

受信: 2006/12/23 8:55:01

コメント

またお邪魔します。
知人に教わった記事ですが、事例として興味深かったのでお裾分けしようと思いまして。
不躾な事をして申し訳ありません。

The Birth of a Language
http://www.radiumsoftware.com/0611.html#061116

投稿: katute | 2006/12/18 13:14:35

こんばんは。私もプロではないので、完全にはわからないので

すが。

>手話は「顔の表情と指文字を併用」すると書かれているが、

手話の構成要素のうち、手に関するものが指文字だけではなく

、例えば手の位置や動きも含まれること

 手の動きが中心ですが、顔の表情と指文字も併用すると言う

意味だと思います。
 通訳するときは、意訳します。それで、不足する名詞なんか

は、50音に対応した指文字で表したり、空に大きくその言葉

を書いて見せます。

>「語彙数は8000語」

辞書は見たことがないので、わかりませんが、手話にも方言が

あります。そう言ったものも含めての数なのでしょうか?

>「文章の関連づけが曖昧で情緒的に理解してしまう」

一つの単語で、複数意味を持たせるからかなと思います。

「私・手話・できます。」→「私・手話・大丈夫」とします。

この「手話」と言う単語を「話」と使う場合もあります。

すみません、反論の材料には不十分ですね。

投稿: winter-cosmos | 2006/12/18 20:30:00

kakuteさん、

記事のご紹介、ありがとうございました。ニカラグアの新しい手話の話は、生成文法的な言語観を持つ私には、以前どこかで読んだ時、ある意味「あって当たり前」の話のように感じたのですが、今回の論争のように手話の劣位性の主張と並べてみると、非常に重要な発見であると認識を新たにしました。

winter-cosmosさん、

「併用」の部分の解釈、たしかにそういうふうにも読めますね。ありがとうございました。

語数に関しては、森川さんがどういう基準や計算で8,000という数を出したか私には分かりませんが、そもそも「明確な文法規定がない」と主張するなら、単語を数えることもできないだろうと思います(例えば、文法理論的な規定がなければ、複合語を一語と数えるのか二語と数えるのか決められないはずです)。

「情緒的」の部分は、winter-cosmosさんの解釈を要約すると「単語が少ないと情緒的な理解になるという意味ではないか」ということだと思うのですが、私の感覚では、全く逆なのです。例えば、詩などで、ほとんど同じ意味の単語を意図的に使い分けたりしますよね、そういうのこそ情緒的だと私は考えます。私の「情緒的」という語の意味の把握がおかしいのかなあ。

投稿: うに | 2006/12/19 15:34:57

すみませんでした。↑記事を読ませていただきながらメモ帳に書いたものを貼ったら、
が入ってしまったみたいです。

中途失聴の方とか、健聴者の手話から比べたら、聾唖者の方の手話を読む(逆通)のは難しいです。
意訳の意訳になるのだと思います。私らが文章に沿って手話に変換していくのと違って、表現が豊かなのだと思います。
その辺りをさして情緒的と言われているのかと感じました。私の場合は、あくまでも感覚的な理由なので、うにさんがおっしゃるように説得力に欠けていると思います。

確かに聴こえの不自由な方で、情報量の違いから語彙が少ないのかと感じたことはありましたが、それは健聴者でも語彙の多い少ないはあるわけで、偏見と言うことになりかねません。

投稿: winter-cosmos | 2006/12/19 19:34:30

winter-cosmosさん、

winter-cosmosさんと私の間で意見の不一致があるのかどうかよく分からない(森川さんの文章の理解に関しては意見が違っているようではありますが)のですが、実際に手話を使って、ろう者と話している人の話が聞けて、とてもうれしいです。ありがとうございます。

ブログでは手話についてお書きになっているのを見たことがないと思うのですが、書くと、かなり個人が特定できちゃうのかな。そういう理由じゃなければ、ぜひ、手話についての話も読みたいです。

投稿: うに | 2006/12/20 23:06:48

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