20世紀の早い時期に、ソシュールが記号について次のような説明を与えた。曰く、記号(シーニュ)とは、音声形式(シニフィアン、能記)と指示対象(シニフィエ、所記)の恣意的な結びつきである。
ソシュールは、また、記号が言語体系(ラング)として整理されていく中で重要なのは、音そのものや物そのものではなく、それらが他の音や物と異なること(差異)であることを明らかにした。例えば、「あ」という母音は、口が大きく開けられて舌の位置が低いこととか、声帯の振動の共鳴がどんな周波数帯に観察されるかによって特徴づけられるというよりも、それがその言語の中で「い」でもなければ「う」でもない音であることが重要であるということだ。
ソシュールの記号学を、私たちは構造主義言語学と呼ぶ。
私たちは往々にして、シニフィエたる実体物が予め存在していて、後になってそれにシニフィアンたる名前をつけているように思いがちである。しかし、実は私たちはシニフィアンに囲まれて言語を習得してきたのであり、シニフィアンなくしてシニフィエはあり得ない。つまり、シニフィアンはシニフィエを繰り延べる=差延するのだ。…ということを、20世紀の後半になって、デリダが提言した。
私たちが言語を習得するとはどういうことか。それは、他者(自己以外の者)から与えられる記号を操る術を身につけるということだ。だから、私(自己、主体)の中には、他者の痕跡が残っている。言い換えれば、整然とした自他の二項対立というものがあるわけではない。この事実を明らかにすることを「脱構築」とデリダは呼んだ。
デリダや、その同時代の思想家たちの考えを、大まかな括りでポスト構造主義の思想と呼ぶことがある。
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デリダやフーコーやアルチュセールやリオタールが生きた時代、つまりポストモダンな時代は、冷戦の時代でもあったことを思い起こそう。彼らは、それぞれの方法で、時代の特質を明らかにし、よりよい世界にしたかったのだと私は思う。
冷戦の思想をゲームの構造でとらえる考えがある。核による相互抑止。それはゲーム理論で言う「チキン・ゲーム」として特徴づけられる。各局面において、相手と張り合うことが合理的な選択だとしても、それが大局的/究極的にはお互いにとって非合理な結果をもたらしかねないことをこのゲームは教えてくれる。
もちろん、「国際政治はチキン・ゲームだ」というような、単純な図式は正しくない。誤った情報に基づいて下される判断もあるし、一つの国の中で、政策立案者たちが権力闘争を起こしたりもする。あえてそのゲームから離脱する指導者もいる。例えばゴルバチョフがそういう指導者だったという批評はあながち間違いとは言えないだろう。
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さて、昨日、私が述べたかったのは、ごく単純なことだ。差異や差延については、ソシュールやデリダの語法に沿って読めばよい。脱構築については、こんなことを私は考えていた:
安倍首相は、北朝鮮の核兵器保有が「国際社会の平和と安定に対する重大な脅威」で、「北東アジアは新たな核の時代に入った」という趣旨のことを語っていた。的外れとも思えない悲観的な表現を用いるとすれば、私たちは新たな軍拡競争、新たなチキン・ゲームを始めたのだ。
世界の多くの国が北朝鮮の行動に懸念を表明している。なんとも客観性が保証されたような気がするではないか。
当たり前のことなのかもしれないが、北朝鮮の指導者たちの見方は違う。彼らにとってみれば、自分たちは抑止の可能性を手に入れたのだ。「これで私たちは安全になった。つまり、平和に貢献した」と考えているかもしれない。少なくとも、公式発表はそう言っている。
さらに当たり前のことに、私たち(「彼ら」ではない人たち)に言わせれば「北朝鮮の核実験は東アジアの平和と安定に貢献した」という命題は偽だ。しかし、それは客観的に偽なのではない。もし「客観的に偽なのではない」と言うのに語弊があるのなら、「ゲームの当事者に、客観性をてらって述べてもらいたくはないよ」とでも言い換えてみようか。
あなたが差し出す「客観的な結論」は、たしかに多数決では勝利するかもしれない。しかし、それはあなたがこのゲームの一方の当事者であるから出すことができた結論ではなかったのだろうか。あなたの客観性の中に、主観性の残滓、痕跡はないだろうか。別にこれは北朝鮮の隣国に限って問うているのではない。たぶん、世界のみんながゲームの当事者になる。何よりもの証拠は、あなたがこれを世界全体の問題としたがっていることだ。国連安保理で話すんでしょ?
今、確認したことは、客観対主観という二項対立がここでは成り立たないということだ。ほら、これが私たちの脱構築だ。
「私たち」対「彼ら」という対立だって維持することはできないだろう。ある人は、この部分をことさらに言い立てて、「アメリカは(もしくは、軍産複合体は)緊張の高まりを喜んでいる」とか言うだろうし、反対に「北朝鮮は、敢えて危険な賭に出た」とか言ったりする。表向きに対立があっても、深層では(真相、との地口だ)お互いがもう一方のアイデンティティに侵入しているわけだ。
自分の中に他者を見つけた者(クリステヴァとかサイードなら「亡命者」とでも呼ぶだろうか)には、未然に防げる惨禍について忠告を発する義務があると私は思う。だから、半ば宗教的な信念をもって、私はこれを書いている。
この対立(もちろん、私は記号論的な意味でこの語を用いているが、あなたが望むなら、それを政治的、戦略的な意味で解釈しても差し支えない。書き手の意図なんか信じないでくれ)は維持できない。あなたは軍拡への道を歩もうとしている。それはあなたが状況をポストモダンな視座から見ていないからだ。
事の発端に立ち戻ろう:「北朝鮮が核実験を行なったと発表した」。発話行為にどのような意図があったにせよ、私たちがシニフィアンを前にして幻想の/神話の/イデオロギーの迷路に入り込んでしまったことは、今や明らかではないか。
そのことに気づき、さらに言語を通じて歴史を継承してきた私たちが取るべき道は、「私たち」と「彼ら」という維持できない対立を乗り越え、軍縮を目指すことだ。
軍縮とは、一方的な制裁とか要求とは異なる。一方的とは、対立を前提とするということだ。何度も言うが、混成的なアイデンティティを持つ私たちには、その対立は維持できない。だから、私たちが必要とするのは、同語反復的な言い回しになるが、相互的かつ包括的な軍縮だ。
さあ、脱構築/軍縮に向かって歩きだそう。