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2006.09.13

サチャグラハの一世紀

南アフリカで、インド系住民が身分証明書の常時携帯を義務づけられ、それに反対する非暴力運動をガンディーが組織してちょうど100年。1906年9月11日、ヨハネスブルグで開かれた集会で「サチャグラハ(Satyagraha)」運動は始まった。南アフリカからの報道

2006年の今日、非暴力主義思想の展望は明るくはない。もちろん、一世紀前だって、それは同じようなものだったはずだ。おそらく、悲観するには及ばない。

私は、侵略され占領されている人たちに向かって「武器を捨てよ、非暴力で行こう」と呼びかける信念はない。自分がまたそのような立場に立たされた時、非暴力を貫き通す自信さえもない。しかし、できる限り、非暴力な現実を形作ることに寄与したいとも思う。だから、軍縮を。平和憲法を。パレスチナやイラクや、その他諸々の地域の占領の終結を。訴える。

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2006年 9月 13日 午前 12:00 | | この月のアーカイブへ

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コメント

NATOがセルビアを空爆した前後4回ほどコソヴォに通っていました。街の食堂で知り合った店員が週末に村の実家に帰る時に一緒に連れて行ってもらい、俗に言うホームステイをしてアルバニア人の生活をひと目のぞき込む機会に恵まれましたが、パリ郊外での和平交渉(最初から茶番だった!)が決裂した2カ月後でセルビア攻撃のうわさが現実味を帯びだしていた頃です。
セルビアの公安と軍によるコソヴォのアルバニア人の村への攻撃、まさに今米軍がイラクでやっているのと同じことが続いている時期なので、僕がいた村から遠く見渡せる範囲にも攻撃を受けた村から上る煙は見え、僕は経験しなかったけど、村人たちは夜中に近くの村に砲撃が加えられる轟音を何度も耳にしていたそうです。親戚や友人に実際の被害者がいるので、攻撃も焼き討ちも遠くでの出来事でなく、すごく身近な可能性だったはずです。本物の緊迫感が、村を包んでいた時期でした。
つい自分がこの村で生まれたアルバニア人だったら・・・と仮定の話を想像すると、やはり銃を持って山に入ったとしか思えませんでした。見える範囲の村々が日替わりで砲撃を受けた証拠として、煙を上がっているのをいつも目にしていたら、いつ自分の生まれたこの村に順番が回ってくるんだろうと、やっぱりそう考えます。現地に行って見なければ、この切羽詰った覚悟は分かりません。
彼には妹と働き者の母がいて、僕が彼の立場に立ったとしたら、男の自分がこの家族を守らなきゃ誰が守る?となります。ちなみに、彼の父も古いライフルを持って自衛の組織に加わり、夜は山にこもっていました。
確かに非暴力の思想は好きですが、自分自身が戦闘のまさに渦中に放り込まれ、自分ひとりでなく目の前に立つ大切な人たちの生活を見せつけられたら、思想や理想は残念ながら忘れ去られます。数年後でなく、今この場での選択として決断を迫られたら、理想より家族が大切なんです。
僕の気持ちが実は危険思想の一種なのは当時から理解していました。でも、向こうの山の斜面からは確かに煙が上っているのに何も行動を取らないのも、また無責任としか感じられないものです、その場に立ってしまうと。

個人のライフプランとして働けるうちに将来に備えて貯蓄するように、理想や思想を語れる間に平和と非暴力を固定させる仕組み、法、ルール、秩序(例えば、その仕組みから外れたら金儲けができなくなるとか・・・)をがっちり固めておかない限り、これからも戦争も侵略も侵害も続きます,残念ながら。
僕がコソヴォで抱いた危険思想の一種は多くの人が同じ立場では共有するだろうし、戦争は企業にとって最高のビジネスチャンスだし・・・。(後者のこの仕組みが最も厄介だ。)

長々とごめんなさい。もう書きません。

投稿: 岸田 毅彦 | 2006/09/13 12:57:41

岸田さん、

貴重な体験談を聞かせてくださり、ありがとうございました。私は全く想像でしか語ることができませんが、記事にも書いたとおり、自分の信念の強さには自信がありませんし、その一方で、できるうちにやれることをやっておきたいと考えています。岸田さんと考えていることは似ているんじゃないかな。これからもよろしくお願いいたします。

投稿: うに | 2006/09/13 18:20:59

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