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2005.05.08

ギュンター・グラスの見るドイツ

The Gravest Generation ― 60年前ドイツが無条件降伏した5月8日を前にして、昨日のニューヨークタイムズ紙に掲載されたノーベル文学賞受賞作家 Günter Grass さんの文章。読んで、私が一昨日感じた疑問への答えに至る道筋が半ば示唆されているように思った。

ギュンター・グラスさんは負傷したドイツ兵としてこの日を迎えた。当時17歳。60年といえば人間なら一生働いて年金生活に入るぐらいの長さであり、記憶という粗い“ふるい”は、もうそれを忘れてしまいそうになっている、とグラスさんは話し始める。

プロシアなどからの大量の帰還者が発生したことによるドイツの戦後の混乱のようすは、“闇市”だの“買い出し”だの“引き揚げ”だのと言う言葉で語られる日本の戦後とさほど変わらないように見受けられる。「無条件降伏」を(ナチス政権の)「崩壊」と言い換えたり、ナチスに属していた人たちが産官学のあらゆる分野でそのまま居座っていたりするようすも、想像に難くない。冷戦期、東西ドイツがそれぞれのブロックで優等生になろうとしていたというのも、高度成長期の日本の姿と重なるようだ。現在、旧東ドイツの失業率は西の倍に達し、投資も滞っている。東西ドイツの統一は失敗であったとさえグラスさんは言う。こういった経済の現状についても、ここ十年あまり振るわない日本とよく似ている。

グラスさんは、60年前に“与えられた”自由と民主主義をドイツが本当に初めて行使したのは、アメリカへのへつらいをやめてイラク派兵を拒否した時だったと言う。しかし、その自由と民主主義は今、危機に瀕している。金融機関や多国籍企業の影響力が議会を圧し殺しつつあるのだ。世界中で、「自由な社会に生きる」代償として、企業の利益追求のための解雇等が仕方のないことと思われるようになってしまっている。それが現実主義だと言われ、これらの問題を取り上げたり、貧富の格差の拡大を問題視する人は夢想家として一笑に付されたり、単に嫉妬深いだけだと片づけられたりする。「連帯する」という語が使われなくなって久しい。これらの観察も、日本にもそのまま当てはめることができるであろう。

最後の二つの段落を翻訳して提示する。

60年前、第三帝国が無条件降伏した時、この権力と脅威のシステムは打ち破られたのだ。このシステムは12年間にわたっってヨーロッパ全土を恐怖に陥れた。それは今日もまだ影を落としているのである。私たちドイツ人はこの恥の遺産と何度も向き合ってきた。そして私たちがためらった時には、向き合うことを余儀なくされてきた。私たちが他者に、そして自分たち自身に引き起した苦しみの記憶は世代を超えて受け継がれてきたのである。他の恥を受け継いで生きて行かなくてはならない国々―ここで私は日本、トルコ、そしてヨーロッパの旧植民地主義諸国のことを念頭においている―に比べ、私たちは過去の重荷を振り払わずに来た。その重荷は私たちの歴史の中で、挑戦としてこれからも残っていくのである。

今日、世界で最後まで生き残ったイデオロギーとも言うべき新しい全体主義の危険を私たちがしのいでいけることを願うばかりである。意識的な民主主義者として、私たちは資本の力を自由に拒否すべきである。資本は人間を消費したり生産したりするモノとしてしか見ないのだから。与えられた自由を株式市場の利益としてしか扱えない者は、毎年、この5月8日が私たちに教えてくれるものを理解していないのである。

2005年 5月 8日 午後 12:01 | | この月のアーカイブへ

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