ミシシッピ州、そして、私たちの国
映画『ミシシッピ・バーニング』の題材となった1964年の市民運動家殺害事件の容疑者が、40年ぶりに殺人の罪に問われている(毎日新聞の記事、ニューヨーク・タイムズの記事)。これは、遅れて正義がなされたという既に完結した話としてではなく、果たして公正な社会は実現されたのかという、未来に向かって開かれた問いとして見るべき事件なのだと思う。
ミシシッピ州中部にあるNeshoba郡で1964年6月21日、黒人の選挙名簿登録を推進する公民権運動の活動家3人が白人優越主義の秘密結社 Ku Klux Klan (もっと現代風に言えば、キリスト教原理主義のテロリスト集団、といったところだろう)に殺害された。FBIの捜査によって、十数名の容疑者が公民権妨害の罪で連邦裁に起訴され、7名に有罪判決が下った。今回起訴されたのは、主犯と見られる製材所経営、バプティスト派教会の宣教師の男(79歳)である。当時の連邦裁では、陪審員の一人が「宣教師を罪に問うことはできない」と主張したため、判決が下せず、彼は釈放された。殺人罪は連邦裁ではなく州裁の管轄であったが、人種隔離政策をとるミシシッピ州政府は容疑者を一人も提訴しなかった。1999年に地元の新聞が新たな証拠を入手し、ミシシッピ州法では殺人容疑には時効がないため、州当局による捜査が再開され、今回の起訴に至った。
裁判冒頭の罪状認否で、被告は無罪を主張している。事件から40年後の殺人罪による提訴は画期的ではあるものの、話はここで終わったのではなく、これから始まるのである。州の司法長官は、情報提供者の協力を呼びかけている。地元紙 The Clarion-Ledger のインタビューに応えて、白人住民は40年前とは状況は全く異なり、人種差別はなくなったと語る一方、黒人住民は状況は全く変わっていないと述べている。最悪の場合、この裁判は冤罪を産み出すことになるし、当時の裁判が一人の陪審員のために未決に終わったように、今回もまた、有罪判決が出ない可能性は小さくないのだ。本当にミシシッピは変わったのか。アメリカは変わったのか。
The Clarion-Ledger 紙に、非常に読み応えのある特集がある。
この古い事件、そしてその新しい展開は、私たちを映す鏡でもある。40年前の不正を正そうという気概は、無条件で賞賛すべきものだ。日本が20世紀前半に行なった数々の不正も、諦めずに精算していく必要があるだろう。州の司法長官は43歳。事件当時はほんの2歳の子どもだった。彼には何ら責任のない事件であるが、彼は正義を実現しようとしている。日本が中国や朝鮮半島、東南アジアで蛮行を働いていたことについて、後から生まれてきた私たちももっと強く声をあげるべきなのかもしれない。「ミシシッピ・バーニング」の中で、テレビのインタビューに答えて、「殺された三人は自業自得だ」と語る人が描かれている。その姿は、高遠さんたちを「自己責任」だと責め立てた人たちと重なって見えはしないだろうか。映画の最後に「(人種差別を)見て見ないふりをしてきた私たちは、みんな同罪なのだ」という言葉が出てくる。それは、戦争や占領、そして種々の差別を許している私たちをも断罪する言葉である。
2005年 1月 11日 午前 07:33 | Permalink | この月のアーカイブへ
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