« 「国が燃える」騒動に思う | トップページ | 「心のノート」 »

2004.10.19

〈帝国〉を読んだ

〈帝国〉グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(マイケル・ハート、アントニオ・ネグリ著、以文社、2003)をようやくのこと読み終わりました。こればかり読んでいたわけではないのですが、私は読みかけの本を鞄の中に入れていないと気が済まない質なので、文字通りの重荷(索引まで入れて、580ページほどある)から解放されて、ほっとしています。

率直な感想を書くと、価値のある本ではあるのだろうけど、長すぎるし、あいまいなままになっているところが多すぎると思います。多分に私の背景知識の欠如が未消化の原因となっていると思うので、著者を批判するのはあたらないでしょう。

まず、ネグリたちの言う〈帝国〉が何ではないかを確認しましょう。〈帝国〉とは、共産主義陣営と資本主義陣営の対立が終わった後に残った、唯一の覇権国家アメリカを表わす言葉ではありません。だから、現在のアメリカやそれに追従する国々の帝国主義的な姿勢と闘うためのヒントを求めてこの本を読んでも、答えは得られません。

〈帝国〉は、経済のグローバル化、特に人口の流動化が更に進み、国民国家(nation state)の主権が弱まった時に存在すると考えられる、超国家的な枠組みのことを言います。地球の隅々まで、そのネットワークが行き渡るため、その時点で、世界のどこを探しても「他者」は存在しなくなり、また、あまりにも大きなネットワークであるため、「中心」となる場所も存在しなくなります。そこでは、民族とか国民といった単位が構成されにくくなっているため、多種多様な民〈マルチチュード〉が、〈帝国〉と直接向き合う形になり、その大きさゆえに、〈帝国〉は〈マルチチュード〉をコントロールすることはできません。だから、グローバリゼーションによって生まれる〈帝国〉は、その誕生の時、すでに〈マルチチュード〉の叛乱という不安定要素を内包しており、いかにその誕生が資本主義、自由市場主義のユートピア的成果であるように見えたとしても、〈帝国〉は革命的な〈マルチチュード〉の手によって没落への道を歩まされている、というのが、この本のあらすじだと思います。(間違っていたら、ごめんなさい。)

この〈帝国〉の定義を現在に振り向けてみると、アメリカは〈帝国〉ではなく、国民国家であり、まさにそのことが様々な問題の原因であると言うことができるかもしれません。先ほども述べたように、この本には、現在の諸問題への処方箋は提示されていません。もっと言えば、〈帝国〉完成時に私たちが何をすればいいかも明らかにはされていません。本の終わりから数ページのところに来て

こうした出来事に対して提供すべきいかなるモデルをも私たちはここではもち合わせていない。ただマルチチュードのみが、その実践的な実験をとおしてモデルを差し出し、いつ、いかにして、可能的なものが現実的なものに生成するかを決定するだろう。

と平然と言われた時は、詐欺かと思いました。

ネグリたちが描く〈帝国〉形成への道筋には、それなりの説得力が感じられるので、ナショナリスト(国家主義者、民族主義者)たちの跋扈に辟易させられている私は、彼らの時代錯誤性を再確認することができ、少し安心した心持ちになることができました。

でも、そのためだけに5,000円超は、ちょっと高いかな。英文なら電子テキストが無料で手に入ることを知った後は、なおさら、そう思います。

2004年 10月 19日 午前 12:24 | | この月のアーカイブへ

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/12988/1716385

この記事へのトラックバック一覧です: 〈帝国〉を読んだ:

コメント

コメントを書く