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2004.08.31

「化石山」

“つぶれそう一座”の自主公演『化石山』を見ました。

柳条湖事件(1931年のいわゆる満州事変)の9月18日に岐阜県瑞浪市の「日中不再戦の誓い」の碑で行なわれる慰霊祭に合わせ、中国人捕虜たちによって建設が進められた地下壕の見学をしようという企画を職場の生協が立てていて、そのパンフレットに岸武雄(1912-2002)『化石山』(偕成社、1977)という本の表紙が載っていたのが、私がこの劇を観に行くことにしたきっかけです。

岸武雄さんは、私が大好きな詩「わたしはひろがる」の作者です。ぜひ『化石山』も読んでみたいものだと思っていたところ、商店街でこの公演のパンフレットを見ました。つぶれそう一座は名古屋を中心に活動する、若いアマチュア(だと思う)劇団です。

周助という国民学校6年生の少年、その友人京平や村の人たちと、地下の軍需工場建設のために連れてこられた王と李という中国人捕虜の交流を描いています。ごくわずかな食料しか与えられない捕虜たちに周助たちが同情して食べ物を差し入れます。王は栄養失調で死んでしまいますが、壕を掘っていて見つけた美しい化石を周助に託します。舞台は、現代、壕の見学に来た高校生たちに老人となった周助がこの化石を見せる場面から始まります。

野崎佳史さんの脚本から少しだけ引用してみましょう。李が柳条湖事件の真相を語り、日本が中国で起こした戦争は侵略戦争だと少年たちに告げた場面です。

周助 「でも李さん、ぼくは日本の本当の目的は満州から外国のわるい人たちを追い払い、みんなが平等にくらせる大東亜共栄圏を作ることだと教わりました。いったい、どちらが本当なのでしょうか。」

京平 「周助、何言っとるんや。日本は正義の戦いをしとるんや。聖戦なんや。お前、そんな情けないこと言うな。」

「今、京平くんは、正義のために戦っていると言いましたね。中国も日本も、どちらも正義の戦争だと信じているわけですが、中国の戦いは正しく、日本の戦争は、まちがっています。」

正義の戦い。聖戦。2001年に初演された台本ですが、決してこれが60年前の話だけではなく、同時代の話でもあることがはっきり意識できるやり取りです。

舞台に関して私見を言えば、全体に、言葉の意味を噛みしめ、余韻を味わう間を大切にした脚本、演出でしたが、それと引き替えに、展開の軽快さが犠牲になっているように感じられました。地下壕の中での労働のようすを舞台背後から照らして影絵のように見せる場面が何回かあり、印象的でしたが、それにともなう暗転が劇全体の流れを押しとどめてしまうようにも思えました。観客の多くはおそらく日中間の戦争の歴史についてある程度の知識をもって観に来るのでしょうから、いろいろな要素を織り込もうとせず、話をもう少し絞り込むといいのではないかと思いました。

この公演は名古屋市千種区の在日本朝鮮人愛知県商工会ホールで行なわれました。舞台の終わり際、建物の前を右翼団体の街宣車が軍歌を大音量で流して通り過ぎるという、なんとも時宜にかなった(?)ハプニングがありました。私たちが努力を怠ればどんな世界が待っているのかを予感させる出来事でした。

ちなみに、「岐阜県瑞浪市」で検索すると、こんなページもヒットします。自民党国会議員のサイト内のページで、宗教団体の発行する雑誌からの転載です。念を押すまでもなく、私が支持する主張ではありません。私自身は歴史教科書などの問題の裏に神道以外の宗教が関わっていたとは知らなかったので、ちょっと勉強になりました。

2004年 8月 31日 午前 12:13 | | コメント (2) | トラックバック (1)

2004.08.30

洗濯場の神

親しい友人の母親が死を迎えようとしている。

初夏に、余命3か月と告げられた時、その少し古めかしい母親は、お巫女さんのような人のところに友人を会いに行かせ、お告げをもらって来た。曰く、洗濯機の周りが不浄になっているから、それをきれいにせよと。洗濯場を掃除した友人は、確かにひどく汚れていたと言った。見るからにすごく古い洗濯機で、普段、どかして掃除などしないのだから、当たり前ではあるが。残念ながら、母親の病気は少しずつ、しかし着実に進行していった。

もうそろそろ危ないと言われ、帰郷し毎晩のように病院に泊まり込んでいる友人から一昨日の朝、電話があった。洗濯機が壊れたとのこと。頼まれて出かけて行き、奮闘すること三十分ほど。直すことができた。信心というものにはほど遠い私だが、分解した時に目に付いた汚れはできるだけきれいに落とし、きっちりとねじを締めた。でも、私の祈りも受け入れられはしなかったらしい。昨夕、友人の母親は昏睡状態に陥った。

洗濯場の神よ、もしいるならば、この母親が安らかに、今までの人生に満足を感じつつ、我が子に優しく手を握られたまま永い眠りにつけますように。そして、この友人が死という圧倒的な現実に押しつぶされることなく、別れを受け入れることができますように。

2004年 8月 30日 午前 12:03 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.29

歴史の汚点を消したい人たち

第二次世界大戦時のアメリカ合衆国における日系市民強制収容という史実は、アメリカでは広く知られている。おそらく、南京の虐殺や、強制連行、性奴隷(“慰安婦”)などについての日本における認知度よりも高いだろう。(俗な例だが、先日、Startrek Enterprise を見逃したのでそのあらすじを読んでいたら、"an internment camp, similar to the Japanese-American camps in WWII" と書いてあった。) 日系人の強制収容は歴史上の汚点として認識され、公式な謝罪等も行なわれてきた。

"The profiling puzzle" ― Cathy Young さんによるボストン・グローブ紙に掲載されたコラム。最近出版された保守派の論客、Michelle Malkin さんの In Defense of Internment という本の評である。この本の主旨は、事実として反米的な諜報活動にかかわっている日系人がいるという疑惑があったので、検束は妥当であったし、民族的な出自にもとづいた同様な容疑者像作成(プロファイリング)は現代でも必要である、というものらしい。Young さんは、この本の著者が強制収容の擁護を行なうにあたって、当時実在し、明らかに収容政策の一因となった人種差別、民族蔑視という要素を無視していると評し、これが危険で有害な本であると述べている。

Malkin さんの本はブログの世界でも激しい論議となっている。彼女自身のブログには、彼女の論旨に痛烈な批判を行なったEric Muller さんと Greg Robinson のブログに対する反論が掲載されている。(例え人種差別的な側面があったとしても、それは直ちに収容政策が不当であったことを意味しない、という居直りである。)私はこの議論を、rss 講読している David Neiwert さんの Orcinus というブログで知った。

ある歴史的な出来事Aに関して、その中の汚点と認識されてきた事象Bの比重を軽く見積もり、他の面Cを強調したり、Bに関する言説を歪めて要約したりすることによって、Aの評価を変更しようとする修正主義は、当然のことながら、東京都の独占物(扶桑社の歴史教科書採択のこと)ではない。アメリカと日本で出されている、これらの主張が、同じ力によって産み出されていることも明らかだ。今はだいぶ古びた言葉になってしまったが、その力、昔は「帝国主義」と名付けられていたものに違いない。

ちぇしゃさんはなゆーさんnanaya さんのブログ記事にトラックバックさせていただきました。三人がお使いになっている北国にトラックバックすると、私のブログ名ではなく記事タイトルが反映されて、「投稿者:歴史の汚点を消したい人たち」となってしまうのを見て、苦笑いしてしまいました。

2004年 8月 29日 午前 09:34 | | コメント (2) | トラックバック (1)

2004.08.28

藪の中

普天間の事故についての asahi.com の記事より:

現場に最初に駆けつけたという海兵隊員らの話を、27日付の米軍準機関紙、星条旗が報じた。同県内では現場をいち早く封鎖した米兵らの行動に「主権侵害だ」との批判が強まっているが、米兵らは「安全確保のためだった」と強調している。

Stars and Stripes の記事はこれ("Marines recount rescue of helo crew")です。私には、主権侵害という批判に反論するための発言を報じているようには読めません。むしろ、主権侵害の可能性があるとか、そういう批判が出ているということには全く触れず、現場での海兵隊員たちの行動を軍人としての勇敢な行動の模範として無条件に賞賛していることが気になります。地位協定の内容や運用に問題があるとか、主権侵害にあたるか否かなど、全く意識にのぼっていないというほうが近いのではないでしょうか。

トップページにある検索で "Futenma crash" のキーワードで見つかった記事を読んでみました。

16日の記事("Okinawa officials clamor to investigate helo wreck")は次のように伝えています。

(14日、)アスベスト服と酸素タンク姿の海兵隊員三名が焼けただれたヘリコプターの残骸を検証したが、沖縄県警は墜落現場に入ることを禁じられていた。

「合同検証が終わるまで、何も動かされはしません」と海兵隊の広報官であるアントニー・アンドリウス少尉は語った。墜落した機体の主部は保全され、飛び散った残骸が周囲の住宅地から取り除かれたと言う。

… 「現場のものはすべて、海兵隊の協力のもと、沖縄県警によって保全されました」とアンドリウスは言う。「これは共同作業です。」

… 沖縄県警は土曜日(14日)、調査に参加できるよう公式の要請を行なった。日本国内での合衆国軍の取り扱いを定める日米地位協定のもとでは、現地の警察は米軍の資産が関与する捜査を行なう際には米軍の承認を必要とする。

報道官の発言と事実が食い違っていることが、さりげなくですが、はっきりと分かるような書き方がされています。(微妙な立場にいる記者の良心のようなものを感じてしまいました。)

18日の記事("Amid protests, wreckage is removed from scene of Okinawa copter crash")では、月曜日(16日)の夕方の段階で、金曜日に出された要請に何ら返答がないという県警の声とともに、機体撤去が始まったことを伝えています。

19日の記事("Helicopter crash provides spark for opponents of Futenma base, flights")の報道は以下のようです。

沖縄県警は、金曜日に調査に参加させてもらうよう要請をしたと言っている。しかし、日米地位協定は公務中の米軍人員の関係する事故の主たる管轄権を米軍に与えている。要請は却下された。

21日の記事("Okinawans plan rallies to protest helo crash")は、現場検証の問題が沖縄県警と海兵隊の間で問題となっていることを認めた上で、アンドリウス広報官の以下の発言を報じています。

「具体的には、沖縄県当局は財物の損壊についての懸念を表明しました。それへの返答として、海兵隊は沖縄県当局に対し、財物の損壊を観察する目的のみにおいて事故現場とその周辺に立ち入ってもよいという提案を行ないました。」

しかし、23日の記事("Governor, general at odds over Futenma flights")には、ブラックマン中将(普天間飛行場の司令官)の

「また、事故現場での地元当局との協力関係は秀逸であったということを言い添えます。すべての段階において、私たちは協力して墜落現場の現状保全を実現することができました。そのため、実際、最も徹底的で最も完全な検証を行なうことができました。」

と、ほとんど白を黒と言いくるめるような発言を掲載しています。

日米地位協定の中味や運用についての問題は横に置いておくとしても、軍当局者の発言が事実をありのままに伝えていないことには、あらためて驚かされました。アフガニスタンやイラクでの米軍の公式発表なども信じられるものではないな、ということを再確認。

2004年 8月 28日 午前 01:28 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.27

諫早湾工事差し止め命令

佐賀地裁で諌早湾干拓事業の工事差し止めの仮処分決定。7年前の潮受け堤防閉め切り、いわゆる“ギロチン”の映像も衝撃的でしたが、26日の長崎新聞「電子号外」に掲載された、工事現場を後にするトラックの写真も(すでに干拓がほぼ完了したように見える背景も含め)象徴的に見えます。

仮処分決定の骨子は

一、有明海の漁業被害と諫早湾干拓事業の因果関係は、法的には経験則上高度の蓋然性があればよく、現段階では法的因果関係の疎明がある
一、事業開始前の環境影響評価の予測範囲を超える地域に深刻な被害が及んでおり、事業全体の再検討と修正が肝要
一、見直しには時間を要し、その間事業が着々と進行すれば再検討自体がより困難となり、一時的な現状固定が重要
一、国は本訴の一審判決まで干拓事業の工事を続行してはならない

とあります(西日本新聞の記事より)。諫早湾干拓事業全体に疑問を呈する内容であり、大型公共事業の差し止め命令が極めて稀であることと合わせ、非常に注目に値する判決だと思いました。

しかし、これによって勝ち取られたのは現状保全であって、堤防の開門による有明海の海流復元ではありません。“宝の海の再生”を祝うには早すぎるように思いました。

例によって、日ごろの不勉強を恥じ、いろいろとサイトを見て回りました。私には、特に、干拓事業の推進を願う人たち(国や県に連なる人たちではなく、地元の人たち)がいるのではないか、という点が気になっていました。

熊本日日新聞のサイトに、潮受け堤防の設置により高潮の被害を受けなくなる住民の人たちのルポが出ていました。1957年7月25日の諫早大水害。死者688名、行方不明者127名という甚大な災害だったようです。「工事に反対しているのは自然保護団体や一部の漁業者で、事業の恩恵を受けないよその人たち」だという意見には耳を傾けるべきところがあるかもしれないと思いました。(これに対する反論とも言えるものがここにありました。)1957年の豪雨の際の日降水量は 1,109ミリ。農水省のページには、「調整池は、(これに匹敵する)降雨があっても、高潮の影響を受けず洪水を貯留できる容量を確保」していると記されています。

この農水省のページによれば、堤防閉め切り後に諫早地方で観測された一日の最大降水量は1999年7月23日の342ミリ(おおよそ80年に一回のレベルだと書いてあります)であるらしく、締め切り前のほぼ同等の豪雨の際と比べ、農作物被害額は1億円以上減となったと述べています。ちなみに干拓事業の総工費は約2,500億円。かたや、漁業への被害は1988年に長崎県と12漁協の間で結ばれた漁業補償の243億5千万円をはるかに上回っていると考えられます。単純に額の大小で決められる問題ではないけれど、財政支出のあり方として、大きな歪みがあるように思えます。一方を見捨てて、他方を取れというのではなく、同じ額のお金があるのならば、もっとだれにでも納得のできる使い道があったのではないかと… 言うは易く、行なうは難いことなのかもしれません。

さまざまな情報のある Isahaya Higata net のサイトにリンクをはります。

2004年 8月 27日 午前 05:57 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.26

ナジャフへの行進

Ali Sistani 師が、手術のために訪れていたイギリスから帰国し、多国籍軍による空爆とサドル師派マフディ民兵の立てこもりによって膠着しているナジャフの状況を打開するため、イラク国民に対し、ナジャフに向かって行進を行なうよう促している。(アル・ジャジーラの記事ワシントン・ポストの記事asahi.com の記事、等)

日本時間の今日正午に列車でバスラを発ちナジャフに向かうシスターニ師の呼びかけに対し、マフディ軍側は既に停戦をもって応じている。多国籍軍側はまだ対応を明らかにしていないようである。

これからの二、三日がイラクの将来を決める重要な日々となるのかもしれない。時代や国を超えて、圧倒的な権力や軍事力に対し、平和を求める人々は「歩く」ことで抵抗の意志を示してきた。イラクで行進を行なう人たちの安全と平和を、遠くより祈る。

2004年 8月 26日 午前 09:58 | | コメント (0) | トラックバック (0)

日の丸と沖縄

沖縄県教育委員会編『高校生のための沖縄の歴史』(1996年、三訂版)から引用(p. 130)。

沖縄における復帰運動は、米軍という異民族の支配に反対する民族統一運動としてスタートした。特に1950年代にはいって、米国が沖縄の恒久支配を推進するため、これまでの民主的な施策を改め、高圧的な姿勢を示したあたりから、復帰運動は顕著になる。たびかさなる米兵による犯罪や、米軍基地から発生する騒音や公害が米軍に対する沖縄住民の反発を誘うようになった。沖縄の人々は、米軍支配に対する抵抗のシンボルとして日本の日の丸をかかげ、復帰運動に結集し闘いぬいてきた。日の丸をかかげた復帰運動は、米軍のたびかさなる弾圧をうけたが、沖縄の人々は日の丸を抵抗のシンボルとしてかかげ続けた。

私自身は、支配と抑圧の歴史の象徴として日の丸をとらえる意識が強いので、この話を最初に聞いた時、複雑な気持ちになったことを覚えている。

沖縄における抵抗のシンボルとしての日の丸のその後に関して、新崎盛暉・他による『新版 観光コースでない沖縄』(高文研、1989)は、

だが、一九六〇年代後半、日米両政府が、平和憲法下への復帰を求める民衆の運動を利用しながら、その中味をスリかえて、日米軍事同盟再編強化のための沖縄返還政策を展開しはじめたころから、「日の丸」は徐々にその姿を消しはじめた。

と伝えている(pp. 41-2)。

沖縄の、宜野湾の人たちは、いまだに変わらない米軍の占領意識に抵抗し、日本政府の無為を糾弾するために、今、どの旗をかかげて闘えばよいのだろう。彼らに連帯しようと願う私たちにも、そのもとに集うべき旗はない。

2004年 8月 26日 午前 07:49 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.25

スーダン・良心の日

この日をスーダン・良心の日として Darfur について考えようという動きに賛同し、スーダンについて。自分があまりにスーダンについて知らないので、外務省のサイトなどを頼りに、基礎知識をまとめてみることにした。

スーダン共和国は、面積はアフリカ最大で、日本の約7倍。人口は推計で2,700万人となっている。人種構成はアラブ系40%、アフリカ系31%、ペジャ族7%。(ただし、以前ここで紹介した記事には「アラブ系」といっても「アフリカ系」住民と同様、黒人で、以前からこの地に住んでいる人たちであるという指摘とともに、Janjaweed としてダルフールで住民の迫害を起こしているのは、土着のアラブ系住民ではなく、隣国チャドのアラブ主義者であるという指摘があった。)

一人あたりの年間GDPは432ドル(03年)。輸出―原油、農産物(主として綿花、ゴマ、家畜)―の総額は2003年度の統計で24.2億ドル、2002年度の統計で輸出の相手国には日本、中国、サウジアラビア、ドイツがあげられている。輸入―工業製品、機械―の総額は26.7億ドル、相手国は中国、サウジアラビア、英国、ドイツとなっている。スーダン概況と題する別ページによれば、2001年度は輸出:18.0億ドル、輸入:15.5億ドルとなっているので、かなり順調に経済成長と(国連による経済制裁解除後の)国際経済への復帰が起こっているのだろう。日本との貿易では、輸出―石油、アラビアゴム、綿花など―が355億94万円(02年)〔たぶん、…9千万円の誤記だろう〕、輸入―機械、工業製品―が61億7千万円となっている。92年10月以降、日本は緊急・人道的な経済援助のみを行なっている。

日本からの進出企業は「なし」とされ、今年3月現在で在スーダンの日本人は47名、日本にいるスーダン人は約70人となっている。(私の勤務する名古屋大学での留学生受け入れ状況を見てみると、1999年 2 名、2000年 3名、2001年 2名、2002年 2名、2003年 1名、2004年 0名だった。京都大学、神戸大学、鳥取大学、名古屋大学が協定を結んで学術交流を行なっているらしい。)

スーダン概況は、「長年の内戦、主要先進国からの経済援助停止、累積債務等が原因でスーダン経済は疲弊している」としているが、石油の推定埋蔵量は約29億バーレルであり、その他にも「鉄、銅、金等の鉱物資源、水資源、更には肥沃な耕地に恵まれており、“アフリカのパン籠”として、スーダンの経済的潜在力は高い」としている。

1998年にクリントン政権が首都ハルツームの薬品工場が化学兵器を製造しているとして、ミサイル攻撃を行なうとともに、テロ支援国家と見なして孤立化政策を薦めたが、ブッシュ政権は「対スーダン政策の見直しを図っており、特に、スーダン和平への関与を強めている」らしい。

イスラム原理主義を基盤とする政府に対し、シャリア法の不適用と自治権獲得を目指して南部のキリスト教勢力が内戦状態にある。90年代終わりごろから、周辺諸国や米英などの仲介によって和平交渉が行なわれている。政府は女性性器切除の撲滅にも取り組むなど、人権状況改善に努力をしていると外務省は評している。ダルフールに関しては、2001年秋ごろから政府系民兵組織と反政府勢力(The Sudan Liberation Army/Movement)の衝突で国内避難民、難民の問題が起こっていると記述している。

こうやってメモを取ってきて、果たしてこれで自分がダルフールの人たちのことをよりよく理解できるようになったのか、全く自信がない。

国連難民高等弁務官事務所の記者会見記事。淡々とした記述であるが、その中にある「国境の川が渇いたら、チャドの方に渡っていくつもりだ」「作物を植えたから、難民キャンプには行かない」「残してきた家族や動物のようすを見るために、スーダンに戻るつもりだ」などの声が、自分をダルフールに近づけるような気がする。それは感傷だと自分を戒める。

2004年 8月 25日 午後 02:22 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2004.08.24

安保は言葉のワンダーランド

日米安全保障条約、いわゆる「安保」を久しぶりに読んだ。(白状しよう。約20年ぶりだ。)言語の伝える意味とリアルポリティク、約束という行為と忘却という生理現象など、さまざまなことに思いを馳せることを強いる文章である。

民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し (前文)

沖縄のヘリ墜落現場でとった米軍の行動は、法の支配を貫くものだったのだろうか。宜野湾市民の自由と民主主義は守られたのだろうか。

国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し (前文)

イラクを引き続いて事実上の占領下に置き、混乱を引き起こしているアメリカ政府は、イラクの人たちの「平和のうちに生きようとする願望」を踏みにじってはいないだろうか。またその一方で、国を持たないパレスチナの人たちなどの希望を看過してはいないだろうか。

武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する(第一条)

アフガニスタン、イラクなどに対する攻撃は、国際連合の目的との両立をめざし、慎み深く行なわれただろうか。

締約国は、他の平和愛好国と協同して、国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に逐行されるように国際連合を強化することに努力する(第一条)

国連の決議をなかば踏みにじる形でイラクへの軍事侵攻は始められたのではないか。また、小泉首相は、日本の外交の柱を日米同盟と国連中心主義の二つだと語ったが、この安保条約の条文は、国連がはじめにあり、それを支えるために日米同盟を形成するのだと言っているのではないか。

日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する(第五条)

イラクへの派兵をしなければ、仮に北朝鮮が日本に対して軍事行動をとった時、アメリカは日本を助けてくれなくなるという議論―小泉首相も、その趣旨の発言を国会の場でも行なった―は、いったいどこから出てきたのであろうか。

日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリ力合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される(第六条)

日本における、とりわけ沖縄における米軍基地は本当に「極東」の平和と安全の維持のために使われているのだろうか。もちろん、アフガニスタンもイラクも、だれも極東とは呼ばない。22日、墜落事故を起こしたのと同型のCH53D輸送ヘリは、沖縄の人たちの反対を押し切り、 イラクへ派遣される強襲揚陸艦に向け普天間を飛び立った

私は、しばし、自分の生きているのが現実世界ではなく架空の、虚偽の世界なのではないかと疑った。

2004年 8月 24日 午前 07:08 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2004.08.23

時を駆けるブロガー

投稿に使っているアプリケーション(WBEditor)を 1.4.3 にアップデートしたら、投稿時刻が9時間先になってしまうことを発見しました。

23日夜、追記:WBEditor の作者にメールで連絡したところ、数日中に修正版を公開するとのこと。

2004年 8月 23日 午前 08:43 | | コメント (0) | トラックバック (0)

みずたまりと2ちゃんねる

過去に何回か話題にしたが、私は青空文庫の活動に参加している。青空文庫には「みずたまり」という掲示板があり、本や文学が好きな人、とりわけ電子テキストの可能性に関心をいだく人が多く集まっている。

この掲示板は、流れる水のようというか、過去ログを残したり取り出したりするためのシステムが備わってはいなかった。三年ほど前、価値のある情報が掲載されるのにも関わらず、過去の投稿を手軽に参照できないのはとても残念だと思い、投稿記事を毎日取り寄せて保存しておき、cgi で容易に見られるようにする仕組みを作った。過去記事を閲覧することは、人手では煩雑にすぎる方法ではあったが、実は機械処理なら労もなくできることであったので、私の過去記事アーカイブには、掲示板ができた当時からのほぼすべての投稿が網羅されることになった。(取り寄せのプログラムにバグがあったため、取り込まれなかった記事が若干あるかもしれない。)

アーカイブと cgi を作った当初、浮かれ気味に私はその新しい仕組みを掲示板で紹介したのだが、「記事が残るという前提を持たずに投稿されたものを後になって公開するのは道義的に問題があるのではないか」という青空文庫の世話役たちの指摘を受け、世話役たちの同意のもと、アーカイブ自体は存続させたものの、その宣伝に関しては、以後、私は一切沈黙することにした。

二年ほど前からであろうか、みずたまりには、ある人物が不快極まる投稿を頻繁に行なうようになった。ここで私が「不快極まる」というのは私の限られた美醜判断の所為ではなく、多くの人が同意してくれるものだと思う。少なくとも私には、この人物は青空文庫の活動を妨害しようと考えて投稿しているのではないかとさえ思える。もちろん、私が不快であると判断するか否かに関わらず、cron によって自動更新される私の過去記事アーカイブには、この人物の発言も着実に収録されていった。

今日、2ちゃんねるの青空文庫関係のスレッドで、私のアーカイブが紹介されているということを知人から知らされた。当該の発言には以下の文とともに、私の過去記事検索 cgi の URL が示されていた。

※(=上で言及した人物)関係は各種?取り揃えております。(w

この発言にはいささか不満がある。第一に、私のアーカイブは、掲示板に書き込まれた言葉を、だれかれの区別なく、すべて公平に蓄えていくことを目的としたものであり、実際、その目的に適った動作をしている。決して不愉快な人物の発言を蒐集するために作られたものでもないし、そのような機能もしていない。この文は、「取り揃える」という動詞の目的語に関し誤解を招きかねないと私は考える。

第二に、上の引用文を誠実に分析した時、「取り揃える」という動詞の主語はだれになるか。そして、「~ております」という謙遜表現は、これがだれの発言であることを含意するか。この二つの問いの答えはどちらも私を指し示めすに違いない。しかし、私はこの発言は行なっていない。ならば、この発言は、その書き手が(アーカイブの管理者である)私であるという誤った印象を与えずにはおかない。

発言者が、この発言が私のものであるという印象、そして私がアーカイブを作った意図が不愉快な記事を蒐集することであるという印象を与えたかったのか、それともそれらが意図しない含意であったのかは私には分からない。

私は以下のように投稿した。

叩かれるのを覚悟で、私がだれであるかある程度分かるようにして書きます。
過去記事検索システムを管理している者です。このサイトは個人攻撃の材料を提供するために運用しているわけではありません。そのような紹介の仕方はやめていただきたいです。
今後の運用に関しては、システムの閉鎖を含め、考えるつもりです。

そして、私はサーバの .htaccess に deny from all の一行を付け加えた。

私は、2ちゃんねるが嫌いだ。その匿名性を悪用して、日々、陰湿な人格攻撃が行なわれていたり、反動的で差別的なイデオロギーの昂揚が謀られたりしているところだと思っている。(もしこの描写にあなたが首を傾げるのであれば、高遠さんたちへの攻撃を思い出してほしい。あるいは、良心的な発言を続ける数々のブログに「名無し」やそれに類した筆名で悪意に満ちたコメントを書き込む、“2ちゃんねる出身”の人たちのことを思い出してほしい。少しは私の言いたいことが分かるはずである。)

もちろん、そのような描写が当てはまらない参加者も数多くいることであろう。今回の発言者も、どのような人物であるのか、私には知るよしもない。しかし、上に述べたような傾向のある場で、あからさまに個人攻撃を意図した企みに自分が作ったプログラムが使われることを私は快く思わない。私の作った仕組みがそのような企みに有効に利用されていて、跳ねっ返った発言の結果としてその利用ができなくなるのであれば、それは私の望むところである。

2004年 8月 23日 午前 08:14 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.22

「歩く・みる・考える沖縄」から

『歩く・みる・考える沖縄』(沖縄時事出版)という本がある。ルーズリーフ式で戦跡と基地を紹介したガイドブックである。手元にあるのは1986年版(平野裕二さんのブログによれば、1997年に沖縄平和ネットワークの編集で『新 歩く・みる・考える沖縄』として再版になっているようである)。十年ほど前に買い求めたものだ。著作編集は沖縄県高等学校教職員組合南部支部と平和教育研究委員会。この本の「普天間飛行場」の項目から抜き書きする。

宜野湾市の中央部に位置し、県内で唯一の米海兵隊専用の航空基地。面積4.8km2で市全体の約26%を占有する。 … 1945年米軍占領と同時に接収され、'60年から海兵隊航空基地となったが、'69年以降第1海兵航空団第36海兵航空群のホームベースとして使用されている。… '79年2月には、第1海兵航空団に多数の核兵器要因が配備されており、普天間にも86名もの核兵器要員がいることが明らかになった。 … '82年8月には、在沖海兵隊にNBC戦の特殊防御班(SDU)が配備された。…

普天間飛行場は宜野湾市をドーナッツ状に空洞化している。基地周辺には、沖縄国際大学をはじめ多数の小・中・高校が隣接し、住宅街がフェンス沿いに広がっている。 … ヘリは、安定性も大変悪く、たびたび墜落・不時着事故を起こしている。'84年には5月と7月に、普天間のCH53大型輸送ヘリが墜落炎上する事故が相いついだ。

NBCとは、Nuclear 核兵器、Biological 生物兵器、Chemical 化学兵器。また、今回墜落したヘリコプターはCH53D型である。

このたび、本棚にあったこの本を取り出し、ここに引用した文章を読んだ時、「20年前と全く変わっていないんだな」と思ったが、おそらく、20年前と状況が同じで歴史書の書き換えが不必要なのではなく、更なる事故が起こり歴史書の書き換えが必要になっているのだと考えるほうが正しいのであろう。状況は悪くなったのだ。(まきこさんのたまごの距離ヘリ墜落おぼえがき」を見ると、この20年間の間に、他にもさまざまな事故があったことが分かる。)

ページをめくると、普天間飛行場付近の絵地図と、配備された飛行機やヘリコプターの解説がある。CH53に関しては、「大型輸送ヘリ 兵員輸送のみでなく、核爆弾輸送用のヘリでもある」とある。

平野さんTeruさんDoXさんまきこさんのブログにトラックバックを送ります。

2004年 8月 22日 午後 11:08 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2004.08.21

パレスチナの畑を測る

ガザ地区のバイト・ハヌン村で、小型ミサイル(Qassam)攻撃を防止するためにイスラエル軍がパレスチナ人の畑をブルドーザーで破壊したという記事 "Bitter harvest in Gaza's breadbasket" を読んでいたら、"the 26 donoms of her family's land" とか、"tens of thousands of donoms of farmland on which stood an estimated total of 42, 000 trees" というような表現がありました。説明なしで使われている donom っていう面積の単位、いったいどれぐらい?と思って、手元の辞書を引いてみましたが見つかりません。(古い辞書を使っている私が悪いのかもしれない。)

ネットで検索したら、平方メートルやヘクタールなどでの言い換えを付記しているページがいくつか見つかりました。ほとんどがパレスチナ関係のページだったので、日本の「坪」みたいに限られた国か地域だけで使われる単位なのだろうと思います。「約」なのか「きっちり」なのか、ちょっと定かではないところはありますが、

1 donom = 1,000 平方メートル

みたいです。(「約」と断わっている文脈では、計算すると940平方メートルから1035平方メートルの間におさまりました。)

とりあえず正方形にすると、一辺が約 31.6 m ということになります。約 300 坪。人によっては円で考えたほうが把握しやすいのかな。それとも、壁がパレスチナ側にはみ出して建てられていることを考えると、長方形で考えるほうがいいかも?

ついでに、よく聞くけど(恥ずかしいことに)実態を知らなかったその他の面積単位についても覚え書き。

  • 1アール(are) = 100 平方メートル = 10m x 10m
  • 1ヘクタール(hectare) = 10,000 平方メートル = 100m x 100m
  • 1エーカー(acre) = 63.61 m x 63.61m

ロケット砲による攻撃への報復のため、村全体の「連帯責任」だとして農地を破壊するイスラエル軍。農地が破壊されれば、武力抵抗を続けるハマスに対して住民の反発が強まることを期待して行なわれた破壊のようですが、その心理作戦はあまり効果を上げていないようです。

しかし、26ドノムの果樹園を根こそぎにされた Um Muhammad さんの言葉は、読む者を複雑な気持ちにさせます。「カッサム砲による攻撃は続けてほしいと思っています。ここの住民の大多数もそう思っているでしょう。砲撃があった時、どれだけみんなが喜びの声を上げたり口笛を吹いたりするか見てみればわかります。もちろん、この村以外のところからやってくれればとは思いますが… でも、いったい私たちに何ができるというのでしょう。私たちは現実を受け入れるしかありません。私たちは占領されているんです。戦略的に見て、カッサム砲は私たちに残された最後の手段です。的中しなくても、少なくとも大きな騒ぎにはなりますから。」

2004年 8月 21日 午後 10:41 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.20

「だるまさんがころんだ」

地雷。この悪しき知恵の産物について、私たちは何を語るべきだろうか。それらが紛争終結後にも不発弾として残り、人を殺傷し続けることの非人道性。その非道徳性を承知しながら、対人地雷全面禁止条約の調印や批准を拒む大国や紛争当事国の姿。

坂手洋二作・演出、燐光群の「だるまさんがころんだ」を見た。(8月18日、名古屋市の天白文化小劇場にて。)「だるまさんがころんだ」は地雷をめぐるいくつかの物語を、暗転を重ねる一幕約2時間半の舞台で描いている。対人地雷の悲惨さを伝えるのは、イラクに派遣され地雷原をさまよう自衛隊員(彼らの任務は、現地の子どもたちに「だるまさんがころんだ」の遊びを教えるというものである)、地雷を製造する会社に勤務する寡黙な男とその家族、カンボジアのある村の人たち、そして地雷を入手しようとする男と地雷除去活動に参加する女である。

地雷に触れ傷つく人を描くことによって、そして地雷をめぐるさまざまな会話を通して、この劇は地雷というものの不条理、地雷を産み出した人間というものの救いがたさを巧みに伝えている。会場で配られたパンフレットに、坂手さんは書いている。

私たちが作るものはプロパガンダではない。演劇である。だがそもそも、そんな区分けなどどうでもいいことだ。創造行為とは、自分たちが生きている世界と「関わる」事である。積極的・自覚的な関係性を組織することである。おそらくそのような作業を、ある「共同体の仮説」として展開し実現するために、独立した劇団というものは存在している。

私はこの劇を見た夜、コンピュータに向かいインターネットの先にある世界を見て回るという日常に戻っても、対人地雷について考えることをなかなか止めることができなかった。私は決して「プロパガンダ」にのせられてそうしたのではないと思う。この問題に自分がもっと 関与 アンガージュ しなければならないという、実存の嘔気を感じていたのだと思う。だとすれば、「だるまさんがころんだ」は演劇として、創造活動として、成功を収めたと私は評するべきだろう。

より個人的かつ具体的には、寡黙な父について物語る次女役を演じた江口敦子さんの地味だが力強い演技に感銘を受けた。

以下のブログに「だるまさんがころんだ」の評があった。演劇について全く素人の私の評よりも遥かに参考になるに違いない。

燐光群の作品を見ることを薦めるコメントとメールを寄せてくれたしぇんてさんに感謝します。

2004年 8月 20日 午前 10:52 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2004.08.19

イランとアフガン難民

イランを訪れる人がさほど多くないためか、イラン国外で入手できる情報は少なかったり、古かったり、間違っていたりすることが多いようです。

例えば、電気のコンセントの形ですが、私が持っている、万能変換プラグの箱の裏には、イランはB3型と書かれていました。もう一つのプラグの説明書にはB3、C、SEタイプの三つの欄にイランが載っていました。地方差があるのかもしれませんが、私が見た限り(+ガイドの人の話)では、ホテルも店も一般家庭も、SEタイプ(というのかな、丸いくぼみに豚の鼻のように丸い穴二つだけがあるやつ)でした。

また、「地球の歩き方」には入国にあたって入国カードの記入が必要だと書いてあって、実際、イラン航空の機内でも配られました(が、私の前でちょうど配りきってしまい、空港でもらってくださいと言われました)が、実際には入国審査にはパスポート以外何も必要ありませんでした。

こういった些細なことだけでなく、イランの国際社会に対する貢献に関しても世界はあまりに無知だとガイドの人は嘆いていました。

イランの東隣はアフガニスタン。ソ連による侵攻(と、それに対抗するためのアメリカが行なった軍事的な援助)、長い内戦、タリバンの強硬な宗教政治、そして 9/11 以後のアメリカによる空爆により、アフガニスタンからは600万を越える難民が国外に脱出したと言われています。そのうちの200万人以上がイランにいたそうです。イランの人口が7,000万人程度ですから、人口の3%から4%にあたる難民を受け入れていることになります。

タリバン政権が崩壊した後は、帰還を促進するようになったようですが、アフガン問題を扱っているサイト解説によると、イランではアフガン難民はキャンプに収容されるのではなく、主にイラン社会の中に溶け込んで暮らしていたようです。教育、雇用の機会もかなり保証されていました。「20年に渡り、イラン政府は国内の難民に対して模範的な政策を採ってきた。国際社会から支援のない中で、アフガン難民危機に多額の支出をしてきた」と書かれています。

振り返って、日本の外務省のページで確認すると、日本の難民受け入れは、インドシナ難民を中心としてわずか1万人台に留まっていることが分かります。イランと日本の経済格差を考えると、恥ずかしいような数字だと思います。最近、難民申請が増えているため、少しずつ対応が変わってきているのではないかとも思いますが、歩みは非常に遅いように見えます。

北朝鮮という人権弾圧や貧困にあえぐ隣国を持ちながら、さらに経済制裁をちらつかせる政府や好戦的な発言をする人たちは、大量な難民の流入という非常に蓋然性の高い事態にどう対処するつもりなのか、問うてみたい気がします。私には、彼らの多くは、コミュニティーの中に難民を受け入れ、教育や雇用の機会を保証することなどよしとしない、蒙昧な民族的偏見を強く持った人たちであるように思えます。だから、実際に大量の難民が発生した時のことが私は心配になってしまいます。願わくば、難民危機などが起きぬことを…

2004年 8月 19日 午前 08:35 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.18

スーダンのソラ

ソラとは、スーダン南部の言語で女性に付ける名前で、意味は「革命」。SORA と名付け、意識の「革命」を目指すサイトを見つけました。SORA = Sudanese Online Research Association。オーストラリアで作られているサイトです。特に Research のページからたどる様々なリンクがよい情報源となっています。言語・民族の地図(PDF)、油田の分布等々。

SORA のサイトは、アフリカ関係の各種ブログから主要記事を再録した BlogAfrica CatalogRSS フィードで知りました。

Sudan: The Passion of the Present にも各種最新情報があるようです。こちらは、私のブログにもコメントをくださる Juki さんのブログのリンクで知りました。来週水曜日の25日は「スーダン良心の日」としての行動の提案が。私たちも何かできるでしょうか。

また、ユーザ登録(無料)が必要だと思いますが、The Washington Post が、イラクスーダンなど、テーマ別の rss 配信を行なっています。イラク、スーダン関連の記事の一番下にある rss のリンクを見ていて気が付いたのですが、その他にどのような範疇があるのか分かりません。(ご存知の方、いらっしゃいましたら、お教えください。)便利です。

どんどん話がずれて行きますが、以前紹介したチョムスキーのブログは URL が変わったようで、配信も Z Magazine のブログ全体の rss しかなくなってしまったようです。

話のずれついでに:私のブログの左コラムの下のほうに、Google の検索を付けてみました。「最近の記事」欄の文字も拾ってしまうので、なんとなくイマイチですが。

2004年 8月 18日 午前 12:28 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.17

墜落

沖縄県宜野湾市普天間飛行場近く、沖縄国際大学や周辺の民家にアメリカ軍のヘリコプターが墜落した13日(金)の事件、とても驚きました。もちろん、歴史の知識としては、小学校に米軍機が墜ちたことがある、みたいなことは知っていましたが、自分の時代にも同じようなことが起こるとは思っていませんでした。う~む、考えが甘い私。

夏休み中で人が少なくて本当によかったと思います。嫌味な言い方になりますが、別の意味で、夏休み中で(あるいは、参議院選の後でとか、オリンピックと重なってとか)よかったと思っている人もきっといることでしょう。

首をかしげてしまうのは、現場の捜査に県警が手を出せなかったという点です。きよこさんという方のページ墜落現場付近の写真を見ました。う~む、否が応でも「あの米国を想い、この属国を創る」という例のパロディー広告を思い出してしまうぞ。

先ほどから日米地位協定を読んでいるのですが、どうもよく分かりません。

米軍のヘリコプターが飛行中に落ちたのだから、「公務執行中」だったわけで、業務上の過失の可能性ということになるのでしょうが、そうすると過失自体の裁判権が「合衆国の軍当局」にあることは理解できました(第17条3aのI)。で、過失の裁判権が米軍にあるから、第17条6aの

日本国の当局及び合衆国の軍当局は、犯罪についてのすべての必要な捜査の実施並びに証拠の収集及び提出(犯罪に関連する物件の押収及び相当な場合にはその引渡しを含む。)について、相互に援助しなければならない。

は適用されず、米軍が完全に捜査の権限を握る、ということなのかな?

でも、県警は航空危険行為処罰法違反容疑で書類送検するつもりだというし、第18条の5に、

公務執行中の合衆国軍隊の構成員若しくは被用者の作為若しくは不作為又は合衆国軍隊が法律上責任を有するその他の作為、不作為若しくは事故で、日本国において日本国政府以外の第三者に損害を与えたものから生ずる請求権(契約による請求権及び6又は7の規定の適用を受ける請求権を除く。)は、日本国が次の規定に従って処理する。
(a)請求は、日本国の自衛隊の行動から生ずる請求権に関する日本国の法令に従って、提起し、審査し、かつ、解決し、又は裁判する。

とあって、損害賠償については日本が裁判権を持っているのだから、やっぱり証拠の収集や実況見分等に関して、米軍は協力の義務を負っていたのではないでしょうか。

いずれにせよ、この第18条の5の続き、eのIに、賠償額について、

合衆国のみが責任を有する場合には、裁定され、合意され、又は裁判により決定された額は、その二十五パーセントを日本国が、その七十五パーセントを合衆国が分担する。

とあり、四分の一は私たちの税金から出るみたいです。

う~む、どうしても納得がいかない。揉めるのは嫌なんだけど、私の来年の確定申告は修羅場になりそう。ただでさえ多国籍軍参加は違憲だと言って一部不払いを申し入れようと思っていたのですが、話がややこしくなってきた…

無精な私は、あまりトラックバックをしないのですが、今回は布施祐仁さんのブログにトラックバックをお送りしてみます。

2004年 8月 17日 午前 12:02 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2004.08.16

フェリックス・ヌスバウム

大内田わこさんから新著の『ガス室に消えた画家』(草の根出版会)をいただきました。アウシュビッツで死んだユダヤ系ドイツ人画家、フェリックス・ヌスバウム(Felix Nussbaum)の伝記です。「母と子でみる愛と平和の図書館」シリーズの最新刊です。

ヌスバウムは1904年にドイツ北西部の Osnabrück で生まれました。そのオスナブリュックに 1998年に建てられた Felix Nussbaum Haus に所蔵されていて、大内田さんの本のカバーにも用いられている「ユダヤ人証明書を持つ自画像」という作品をご覧ください:

ナチスの迫害を逃れ、ベルギーのブリュッセルに秘かに、自分がユダヤ人であることを隠して滞在していた時期(1943年)の作品です。暗く不気味な空の下、高い壁を背に、ユダヤ人であることを示す黄色いダビデの星が縫いつけられたコートを着て、赤く「ユダヤ人」と判を押された身分証明書を提示しながらこちらを見る一人の男が描かれています。

大内田さんはこの絵について、以下のように書いています。

塀で囲まれた行き止まりの角に追い込まれたその男は、ヌスバウムが絶対につけなかったといわれる黄色いダビデの星を、外套の胸に縫いつけています。…追いつめられた自画像。しかしヌスバウムはナチスに屈していません。そのはね返すような真っすぐなまなざしに、私ははっきりと彼の抵抗をみるのです。

同じ絵に関して、他の描写をいくつか見てみました。Art for a change と題されたサイトの Mark Vallen さんの評:「陰鬱な灰色の空、枝葉のない木、そして圧迫感のある建物が、この作品の絶望感を際だたせている。作者の不安に満ちた眼差しは、見る者をぎこちなくも、彼に身分証明書の提示を求めている見えないナチの立場に立たせる。ヌスバウムは、その場の恐怖に私たちを引き入れるだけでなく、同時に、私たち自身が他人を迫害する立場にいないかの検証を強いているのである。」

The Legacy Project というサイトにある記述:「この絵は深い絶望と恐怖、そして連帯感を表している。ブリュッセルの絶え間ない空爆の下、ヌスバウムは耐え難い状況に置かれていた。彼の両親と兄は既に収容所に送られていた。絵の中で、彼は行き止まりの隅に追い込まれ、自分がユダヤ教徒であることを明かし、迫害を受けたり殺されたりした者たちへの連帯を表明している。」

「私が死んでも私の作品は死なせないでくれ。人々に見せてくれ」と言い残したというヌスバウムは、この自画像を通じて、私にはこう語っているように思えました。「あんたがこの絵を見ている時、俺はもう死んでいるかもしれないな。なんとか生き延びるつもりなんだがな。俺がだれかって?ユダヤ人だよ。ほら、ここに証明書だってある。ユダヤ人って大きく書いてあるだろう。黄色い星だって付けてる。ふだんは人には見せないんだがな。こんなどん詰まりのところで会うなんて、あんたも追われてる身だね?今日はユダヤ人、明日はあんたたちってことかもしれねえ。この壁、乗りこえてみるか?見ろよ、枝を全部切り取られた木も、きれいに花を咲かしている木もあっちにはある。絶望も希望もありそうだっていうことだ。うまく逃げおおせるかもしれねえし、壁から降りた途端に撃ち殺されるかもしれねえ。俺は、もう少し待てば日が暮れるから、そうしたら、人通りがなくなったのを見計らって、左の角からそうっと歩いて帰るつもりだ。どうする?あんたが壁を越えるつもりなら、肩を貸してやろうか?そうか、あんたは絵の向こう側にいるんだな。覚えていてくれよ、死んじゃいけねえ。何とか生き延びるんだ。俺に会ったこと、覚えていてくれよな。あんたは俺、俺はあんただ。あんたもこういう証明書を持って歩かなきゃならない日が来るかもしれないんだからな。」

上に挙げたリンクの他、次のページがヌスバウムを知るのに参考になりました。

2004年 8月 16日 午前 12:06 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.15

イランの新聞

旅行ガイドブック Lonely PlanetIran には、イランで発行されている英字新聞として、Tehran Times、Iran Daily、Iran News と Kayhan International の四種類があげられています。旅行中はちょっと日程を詰め込みすぎて、本や新聞にあまり注意を払っていなかったからか、Kayhan International は手に入れることができませんでした。

ファルシ語(ペルシャ語)の新聞は非常にたくさん(十種類以上)あるようです。見た目に地味なものも少し派手めなものもありますから、中にはスポーツ紙、タブロイド紙のようなものも含まれているのかもしれません。売店の写真を撮っておかなかったのが悔やまれます。

現地のガイドさんに聞いたところ、英字新聞はどれも「政府寄り」だと言っていました。それでも私の見る限り、少し報道姿勢に違いがあるように思います。イランの政治に注目してきたわけではないので、「政府寄り」と「保守的」の見極めが私にはできませんが… 以下、間違っていたらごめんなさい。価格はどれも 1,000 リヤル(約14円)でした。

Tehran Times ― たぶん、一番保守的だと思います。発行部数も一番多いのではないでしょうか。大企業の入札募集広告などがたくさん載っています(つまり、国外の資本家の目にとまることを意識していると思います)。多国籍軍によるナジャフ攻撃に関しての記事で、ハメネイ師のことを "Supreme Leader" (最高指導者)という呼称を使って記事を書いています。そして、この件に関してはハタミ大統領の発言は取り上げていません。大企業や政府が企画したと思われる「特集」記事がかなり載っていたり、「国際」「国内」などと並んで「石油・ガス」のページがたっていたりします。文化欄は面白いですが、政治や社会の記事はかなり退屈に感じます。反米、反イスラエルの論調が顕著です。Azadegan 油田の開発に関して、日本の協力に対してアメリカが横やりを入れている、という大きな記事が出ていました。

Iran Daily ― テヘラン・タイムズに比べ改革派寄りなのではないかと思います。価格統制(政府による価格補填)の廃止や民営化など、自由経済路線を目指しているように見えます。ナジャフに関する記事では、ハメネイ師は「イスラム革命の指導者」となっていて、「最高~」とはなっていませんでした。また、ハタミ大統領の発言も掲載していました。アザデガン油田に関しては、日本企業との合弁や技術移転に好意的な論評を載せていました。

Iran News ― 三紙のうちでは、これが一番改革派寄りだと思います。ナジャフの記事では、「最高指導者」の呼称は使っているものの、ハメネイ師とハタミ大統領の両者が発言した、といった書き出しで、ハタミ大統領の扱いが大きいのが目を惹きました。外電による国外のニュースがかなり多いです。イラン・デイリーと同様に地元紙の記事の要約の欄があるのですが、こちらでは、次の各紙を「改革派の」という注釈をつけて、取り上げていました:Shargh、Tose'eh、Etemad、Mardomsalari。一方、Jomhouri-e Eslami という新聞が、「保守派の」と書かれています。また、Iran という新聞が「政府発行の」と「改革派の」という注釈付で一回ずつ引用されていました。

2004年 8月 15日 午前 11:49 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.14

ジェノサイドって?

"State Dept.: Sudan Genocide Hard to Prove" ― The Washington Post の記事。ダルフール地方の状況について、米国務省は (1) ジェノサイドが起っているとは現在のところ判断できない、(2) ジェノサイドが認定されたとしても、合衆国は何ら法的措置を執る義務を負わない、と考えているという。

合衆国の上下両院は、先月、ダルフールの状況をジェノサイドであると認定している(Darfur: A Genocide We Can Stopニュースページ、7月23日の項を参照)。また、連邦政府の支援によって設立された United States Holocaust Memorial Museum は、機関として初のジェノサイド認定を行なっている(同サイトの Who will survive today? のページを参照)。

アメリカの政府機関である USAID 副長官の記者会見(7月29日)では、法的用語ではない "ethnic cleansing" (民族浄化)にあたる状況は認められる(ある集団をねらい打ちして村が破壊されたりしている)ものの、"genocide" の定義にある「殺害の意図」が欠けているように思われるという指摘がなされている。(十年前のルワンダでは、トゥツィ族の人間がフトゥ族に捕まったら、間違いなく殺されていたが、ダルフールではそのような状況にはない、という説明がされている。) 避難民となって餓死したとしても、それは「殺された」とは呼ばない、ということなのであろう。

Convention on the Prevention and Punishment of the Crime of Genocide (ジェノサイド条約)の第2条に定義があるというので見てみようと思ったら、なんと日本はこの条約を批准していないのであった。未批准の理由は、処罰に関する国内立法が義務づけられているためだという。落胆を禁じ得ない。

「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」 「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」といった憲法前文を得意げに引用してみせた小泉首相も、そしてもちろん、この国に生きる私たち一人ひとりも、派兵など考える前に、ましてや憲法を変えることなど考える前に、国際社会への貢献の領域で日本がこれまで怠ってきたことが多々あることを知るべきである。

2004年 8月 14日 午前 12:01 | | コメント (1) | トラックバック (1)

2004.08.13

ワシントンポストは振り返る

"The Post on WMDs: An Inside Story" ― The Washington Post 紙が8月12日に一面に掲載した、イラク開戦に至るまでの自社の報道姿勢を検証した記事。 Howard Kurtz さんによる。

フセイン政権の大量破壊兵器保持やアルカイダとのつながりについて、何人もの記者がブッシュ政権の見解を疑問視する記事を書いたにも関わらず、掲載されなかったり、フロントページからは遠い、人目に付かないところに掲載されたようすを伝えている。

大新聞が戦争中や開戦前の報道に関して反省する姿勢を見せたのは5月のニューヨークタイムズ紙に次ぐものだと言えるだろう。(このブログでは「報道と責任」の記事で取り上げた。)ワシントンポストの記事は、編集部内部の人たちのようすを交えて「泥臭く」描かれていて、興味深い。

ブッシュ政権に批判的な記事が冷遇されたのは、編集者たちの「さあ、これから戦争だ」という集団心理によるものだと Kurtz さんは言い、編集者たちも自分たちの判断が間違っていたことを認めている。ただし、これは「反省」の記事ではない。インタビューを受けた編集者の一人は「もっと執拗な取材をするべきであったことは認めるが、読者に謝罪をする必要があるとは考えていない」と語っている。また、この記事は別の編集者による「戦争に反対していた人たちは、メディアが反戦の側に回れば、その報道によって戦争が防げたという間違った印象をいだいている」という発言で締めくくられている。

報道によって世論が形成される度合いを著しく低く見積もっている点で、これらの発言は誠実さを欠くきらいがあると私は考える。実際に戦争で命を失った人のそばにいた者たちにとって、どれだけこれらの言葉が虚ろに響くだろうことか。その一方、心の片隅で、報道機関に今以上のことを求めるのは無駄なようにも思ってしまう。イラク戦争の真の姿を知ろうとした良心的な人たちは、決して新聞の第一面に惑わされることなく、自分たちのネットワークを通じて、大きなメディアでは小さくしか扱われない、しかし重要な情報を伝え合ってきたのだから。しかし、私たちは戦争を止められなかった。それが事実である以上、今の仕組みの何かを変えなければ、過ちが繰り返されることを止めることもできないのであろう。

2004年 8月 13日 午前 06:17 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.12

イランの女性

isphahan.jpg

私は男性なので、ちょっと他人事のような感じ方をしているかもしれませんが、ヘジャブ(スカーフ)やマガナエ(フード)、チャドル(黒い布)、マントゥ(コート)の着用が義務づけられているとは言え、イランの女性、特に若い女性はすこぶる元気でにこやかだという印象を受けました。服装の制限に不満がないわけではないと思いますが、それに精神的に負けてはいないという感じです。日本の会社でも、女性だけ制服を決めているところがありますが、それと質的な差はないのかもしれないと思いました。マントゥの下には、ジーンズをはいている人も多いです。サンダル履きの人もけっこう見ました。あと、生地を買ってきて自分でチャドルを縫うのでしょうか、ミシンをたくさん見ました。ジャノメ・ミシン、健在でした。

女性の社会進出も、それなりに達成されているように見えました。女性の管理職が多いかどうかは、かなり疑問ですが、少なくとも「働く女性」は店にも、オフィスにも、いたるところにいます。主要産業の生産過程から疎外されずにいるように思えました。シリアでは目に見える職場にはほとんど女性がいなかったので、大きな違いを感じました。

話しかけてくる人のなかでは、女性のほうが圧倒的に英語が上手でした。考えてみると、日本でもそうかもしれません。

初対面の女性に、宗教や政治のみならず性につながる話をするのも気が引けて、ジェンダー関係の話は全くする機会がありませんでした。ちょっと残念。(そういえば、昨年、私のいる大学にイランから留学してきていた女性は、イランではスカーフをしているようでしたが、日本にいる間はスカーフをしていませんでした。反対に、今年エジプトから来ている女性は、国ではスカーフをしないけど、留学してきているアラブ人に保守的な男性が多いので、日本ではスカーフをしていると語っています。)

Free Thoughts on Iran というブログで Ghazal Geshnizjani さんの "Dress codes for women" という記事を見つけました。日本語のブログを見て戸惑われるかもしれないけど、トラックバックを送ります。(Ghazal, greetings from Japan! You may not be able to read this trackback ping, but we are discussing the status of women in Iranian society here.)

一昨日に書いた「イランから帰る」に少し書いた性差の話題について、いまだごぜんさんからトラックバックをいただきました。ありがとうございました。こちらにもトラックバックをお送りします。(あわわ、他の記事にトラックバックやコメントをくださった方々にも、もちろん感謝しています。)

8月7日は預言者ムハンマドの娘ファティマ(アリの妻)の誕生日だったそうで、イランでは「母の日」として祝われていました。政府系ですが、iranwomen.org という団体の URL が新聞に載っていたので、紹介しておきます。

2004年 8月 12日 午前 12:00 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2004.08.11

憲法とコメント

コメント・スパムというのでしょうか、カジノの宣伝らしきコメントが立て続けに10通もついていたので、消しました。コメントやトラックバックの扱いに関しては、いろいろな考え方があると思いますが、私は、自分がここで伝えたいことと相容れない内容のコメント、トラックバックを削除することに躊躇をしません。(以前書いたコメントの中で表明した立場です。近いうちに、プロフィール欄にも書いておこうと考えています。)

さて、この機会に、私が8月1日に書いた「しばらくお休み」に付けられたコメントについて、一応、私が考えたことを書いておこうと思います。kkkk と署名した人のコメントは「しばらくお休み」の記事とは何ら関係がありませんし、明らかに私がこのブログで伝えたいこととは異なる主張ですから、私が迅速に処置できる状態であったならば、削除の対象にしていただろうと思います。非論理的でしかもメールアドレスもウェブページアドレスも虚構の人(たぶん、私がこれを書いても、もう読んでいないのではないかと思います。また、いろいろなところに同じ物を貼り付けているのではないかと思います)に返事を書くのには切ないものを感じます。

kkkkと署名した人が「9条原理主義者」に聞きたいとしているのは、戦争の放棄、戦力の不保持が他国からの侵略を黙認する敗北主義に陥っているのではないか、また、平和の維持を唯一の目的とするならば、大きな武力行使を伴わない植民地化は許容されてしまうのではないか、という二点です。

これらの疑問に対する答えは、第9条だけではなくて憲法前文も読めば、自ずと分かります。前文では、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」第9条を含む憲法の中身を規定したこと、また、「恒久の平和を念願」することが「崇高な理想」であると考えていることが書かれています。kkkkと署名した人は、第9条ではなくて、この部分に同調できないのだと私は思います。

侵略戦争が引き起こした惨禍や(日本が被害者となった)核爆弾の脅威などを目の当たりにして、世界がこういう認識に至ったことがこの憲法制定の前提条件になったわけですから、それ以前の時代に蒋介石がもっと融和的であったら日本の侵略はどうなっていただろうとか、第二次世界大戦よりも400年以上も前の南米大陸の話を引き合いに出しても、全く意味がありません。

また、第9条を受け入れたら日本による朝鮮半島の植民地化は「平和」だったからいいということにならないか、それとも「抵抗」が問題なのかという疑問も、憲法前文にある「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」したいという願いとは相容れませんから、これも否と言うほかないと思います。

ちょっと厳しい言い方になりますが、kkkk と署名した人は、憲法を全部読まずに、第9条のところだけ読み、しかもそれに異議を唱える人の書いた文章などだけを頼りに解釈して、勝手に「9条原理主義者」という仮想敵を頭の中に作り上げているのではないかと思います。

折しも、青空文庫で、文部省が1947年に配布した『あたらしい憲法のはなし』が公開されました。一読をお勧めします。

2004年 8月 11日 午後 03:51 | | コメント (1) | トラックバック (2)

2004.08.10

イランから帰る

昨日、イラン旅行から帰ってきました。何回かに分けて、感想等を書きます。

イラン・イスラム共和国。ホメイニ師による1979年の革命や、それに続くアメリカ大使館での人質事件、1989年まで続いたイラン・イラク戦争の記憶は私たちの多くにもまだ新鮮ですし、東でアフガニスタン、西でイラクと国境を接していること、ブッシュ政権が「悪の枢軸」の一つとして名前を挙げていることなどから、なんとなく「危ない国」という印象が強いのではないでしょうか。実際、9/11 の前は年間6,000人ほどの日本人観光客が訪れていて、成田からの直行便もあったようですが、現在では、日本からの一年の旅行者数は1,000人を割り込み、直行便もなくなりました。また、イスラムの教えを基盤とした国家運営が行なわれているため、思春期以後の女性はヘジャブ(スカーフ)をかぶり、体の線を見せない地味な衣服を身につけなければならないことなども、この国を近寄りがたくしているように思います。

実際に旅してみて、バスの前後に男女が分かれて座っているのを見たりすると、公民権運動以前のアメリカ南部の話(黒人はバスの後部に座らされていた)を思い出したりしましたが、ものすごい違和感を感じることはありませんでした。(同行の女性は、スカーフは暑くてかなわないとこぼしていましたが。)もっと訪れる人が多くてしかるべきだと思うのですが、どうやったら雰囲気が伝わるでしょうか。シリアとレバノン、トルコと比較してみます。どの国も、住んでみたわけではないので、聞き流してください。

日常の食料品などをどう買うかという点では、レバノンと同じような感じで、小さな個人経営の店が主流なようです。(シリアは露店で野菜などを買う感じ、トルコはスーパーが結構あります。)道や建物などの整備の面ではトルコと肩を並べていると思います。(シリアはインフラ整備がまだまだ、レバノンは表面はきれいでしたが、停電とかが多かったです。)教育の度合いはかなり高い感じ。一般市民の貧富の格差は少ないという印象。(物乞いをしている人は一人しか見ませんでした。)携帯電話やパソコンはかなり普及しているようです。街の人々の服装など異国情緒的なイスラム度はシリアと同じくらいです。(男性はほぼ全員がシャツとパンツで、白いガウンのようなものを来ている人はほとんどいません。)しかし女性旅行者にもヘジャブ着用を求めたり、酒類が表向きには全く販売されていない点ではイランが際だって厳格なように思います。遺跡や寺院など、見ごたえのある物の多さでは、他のどの国にも引けを取りません。

二人の現地ガイドの人と詳しく話すことができたのですが、その一人とは、イラク情勢などについて、ほとんど私と同じ考えを持っていたので驚くほどでした。たぶん、私のブログを読んで共感を感じてくれる方の多くは、日本国内の排外的な潮流を前に自分の正気を疑うこともあるかもしれませんが、自分の感覚に自信を持っていいと思いました。

2004年 8月 10日 午後 11:53 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2004.08.08

スポーツと国民感情

数日前のことになるが、市内観光中、ある博物館に入ったら、サッカー・アジアカップの日本対バーレーン戦(準決勝)の最中だった。オフィスでテレビを見ていたおじさんたちが延長戦に入るらしいと身振り手振りで教えてくれる。一通り見て回って、出ようとすると、英語が堪能な若い女性が、勝ったよ、おめでとう、と話しかけてきた。周りにいた人の言葉を通訳して、イランでは、勝った人がみんなにお菓子をふるまうんだと言う。もう数時間後にイラン対中国戦でイランが勝つから、おあいこでしょ、などと言って笑い合う。総じて日本のことを好意的に見てくれている実感がある。

イランが中国に惜敗。すれ違いざまに、小学校にも上がらないような男の子が私を見て「中国人(チーニー)!」と叫んだのを聞き、あわてて飛行機の中で読んだ入門書の単語と文法を思い出して「私は中国人ではありません。日本人です」という文を言えるようにしておく。実際は、気のよさそうなおじさんが一人近寄ってきて、笑いながら「日本人か?」と聞いてきただけだった。おどけて怯えたふりをして「はい。中国人ではありません」と答えたら、大笑いして去っていった。

エスファハンを観光中、店先で日本対中国戦の中継を多くの人たちが見ていた。日本人かと聞かれ、そうだ、と言った途端、試合終了。拍手で祝福してくれた。店の人たちと握手。決勝戦がイランとだったら、どういう体験になったかは分からないけれど。

総じて、ペルシャ語が分からない私にも、ほとんどの人が親切に声をかけてくれる。お互い通じ合う言語がなくても、臆せず話しかけてくれるイランのみなさんに感謝。

2004年 8月 8日 午後 09:24 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.08.05

平和な国

成田からテヘランに向かう飛行機の中でペルシャ語の入門書を必死に読んでいたら(そんな一夜漬けで身に付くわけがないのは当然ですが)、通路を隔てた席に座っていたイラン人から声を掛けられた。

イランとトルコとイラクの国境線が交わっているへんにあるウルミーエという都市の大学で工学を教えているのだそうだ。イランでICチップ関連の会社の経営にも関わっていて、日本企業と合弁で開発も行なっていると言う。アメリカで博士の学位を取った彼に、知人たちは、なぜアメリカで起業しないのか、なぜ日本なのかと聞く。もちろん、アメリカが厳しい経済制裁を科していることもあるが、それはいくらでも抜け道がある。彼が日本にこだわるのは、「平和なところで仕事がしたいから」なのだと教えてくれた。

その答えを聞いて、私は本当にうれしかった。ありがとう、あなたが今言ったことは、私にとって、とても重要なことなのです。と言って、私は彼と握手を交わした。

(2004年8月3日 テヘランにて)

2004年 8月 5日 午前 03:32 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2004.08.01

しばらくお休み

一昨日に書きましたが、月曜日より、一週間強の旅に出ます。旅先のインターネットカフェに日本語がインストールされていれば何か近況を報告できるかもしれませんが、おそらく、10日か11日まで新しい記事はありません。心配しないでくださいね。(というより、私のことがすっかり忘れられてしまうのではないかと、そっちが心配。)

私の文章を読んでくださるみなさんの、体と心の健康をお祈りいたします。

2004年 8月 1日 午前 12:55 | | コメント (4) | トラックバック (0)

普通の人と話すには

"The Other War" ― パレスチナ・イスラエル間の紛争に関するドキュメンタリービデオ Peace, Propaganda and the Promised Land: U.S. Media & the Israeli-Palestinian Conflict について書かれた Daniel Oppenheimer さんによる記事。二回連載の一回目がマサチューセッツ州西部のコミュニティー紙 The Valley Advocate の7月29日号に掲載されている。

Peace, Propaganda and the Promised LandMedia Education Foundation という非営利団体に所属する Bathsheba Ratzkoff さんによる作品。この中で、イスラエル出身の Ratzkoff さんは、パレスチナが過酷な軍事占領に置かれている事実を伝えるとともに、アメリカの伝統的なメディアがその実情を伝えずにいるか、そしてイスラエルがメディアをどのように利用しているか、アメリカ合衆国の外交政策がいかに平和的解決の障害となっているかを明らかにしている。

この記事の著者、Oppenheimer さんもユダヤ人である。彼はアメリカにおけるパレスチナ問題の議論が左翼的な政治思想と一体化しすぎていたり、反ユダヤ主義の道具として利用されていると考え、これまでパレスチナ問題との関わりを避けてきたと言う。しかし彼は、この映画を見ることによって、そして歴史家の Benny Morris さんの、イスラエル建国にあたってパレスチナ人の難民化は容認されるべきことだったとする発言を驚きをもって聞くことを通し、この問題に密接なつながりを持つようになる。

この記事の末尾に、大学で開かれた上映会の後の討議時間の様子が描かれている。参加した学生たちは、占領に関しては客観的な事実把握をしているようだが、イスラエルに対しての態度は、かなり単純なメディア批判、政策批判の域に留まっているようである。Oppenheimer さんは、彼の両親のように決して偏狭ではない人がイスラエルにもっと好意的な見方をすることを指摘し、それにどう対応していけばいいかが自分にはまだ分からないと語る。それを聞いた学生たちは、今のイスラエルには平和を望む意志があるのかさえ不明だとして、彼の疑問に同調する気配はない。…と、ここでこの記事(前半)は終わっている。

私は、Oppenheimer さんの心配が自分のことのように分かる気がする。憲法や平和の問題を語る時、あるいは人種差別などの偏見に関して語る時、私がいつも気にするのは、どうやって「偏狭ではない人たち」、いわば「普通の人たち」と話をしていくかである。私の仲間たちの多くは、憲法を護らねばならないこと、平和が尊いこと、他民族の蔑視が許されないことなどを当然のごとく受け入れている。しかし、それらを当然のこととして片づけてしまっていたら、普通の人たちに私たちの考えを伝えてはいけないのではないかと私は危惧する。また、あたかも普通の人たちのような顔をして偏見や高慢さの害毒をまき散らす人たちに対抗していけないだろうと心配する。卑劣な人たちと議論する必要を私は感じない。そんなことをする時間や労力は無駄だと思っている。しかし、一人でも多くの「普通の人」に私たちの話を聞いてもらい、いっしょに考えてもらうことは大切だ。

Oppenheimer さんがこの課題にどう取り組んだのかは、次週の続編を待たねばならない。

2004年 8月 1日 午前 12:41 | | コメント (0) | トラックバック (0)

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