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2004.06.09

サルトルはどこへ行った

長谷川宏さんの『同時代人サルトル』(講談社学術文庫)を読みました。とても読みやすい好著だと思います。ごく個人的には、長谷川さんという方は、私と「同じ文の長さで考えている人だな」という印象を懐きました。だから、万人にとって読みやすいということではないのかもしれません。『嘔吐』、『存在と無』、『弁証法的理性批判』を論じた部分(と偉そうに書きましたが、実は私は『嘔吐』しか読んだことがありません)は非常に読み応えがありましたが、ジャン・ジュネ論や演劇ジャンルでの作品を扱った部分は、ちょっと物足りない(もっと紙幅がほしい)ように思いました。

ところで、サルトルの著作は、昔は書店に数多く並んでいましたよね(文庫本でもたくさんあったはず)。現在は驚くほど減っているように思います。確かに、フランス現代思想と言えば、既にサルトルではなくて、フーコー、デリダ、アルチュセールなどでしょうから、仕方ないと言えば仕方ないのでしょうが。でも、そのわりには“サルトル入門”的な本がけっこうたくさん出ているのはちょっと不思議なところ。私、実存主義は、いつの時代でも、かなりの人にとって「青春の基本」だと思うのですが、今、青春を迎える人たちはどうやって思想の糧を得ているのでしょう。

今日は『同時代人サルトル』を読みながら考えたことをダラダラ独り言のように書いています。読むに耐えないと思います。すみません。

ナチス占領下のフランス(レジスタンスの時代)が、圧倒的な支配力の日常化と、それに抗する(一部の)人々が否応なしに自由意志を昂揚させていたことで特徴づけられるとすると、今のイラクからもサルトルのような思想家が生まれるのではないかと期待してしまいます。もちろん、解放後のフランスが、サルトルが予期したような大衆の自発性に満ちた生活の場にはならなかったことも事実で、歴史が道標となるのなら、イラク社会全体の道先に過度の期待を抱くわけにはいかないのでしょう。また、第二次世界大戦前後の時期の共産主義のように社会改革の前衛に立つようなイデオロギーを私たちの時代は持ち合わせていませんし、イラクにおける知識人階層の崩壊離散は戦後のフランスのそれを遥かに上回っているでしょう。

日本の戦後民主主義の模索・確立が、サルトルの問題意識と完全に一致するものではなかったけど、当時の日本が選択した、ナショナリズムの対立項としてのヒューマニズムと、実存主義が描く“世界と隔たりをかかえた個としての存在”が近似していたこと。こういう話を読むと、いつも、もう少し早く生まれて来たかったと悔やんでしまいます。サルトル(1980年4月15日死去)と同時代を生きた最後の世代である私(たち)は、再びナショナリズムや大国の覇権主義に戻りつつある世界の状況の中で、彼から学んだ社会参加(アンガージュマン)の実践を今までになく強く迫られているのだと思います。

2004年 6月 9日 午前 12:16 | | この月のアーカイブへ

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コメント

学生時代古本屋さんで買った「嘔吐」。何人目の持ち主が書いたものでしょうか。表紙の見返しにかかれていた走り書き。

「僕を乗せた電車という箱が走る。
なぜ?
なぜ今僕は電車という箱の中にいる?」

というものだったと思います。
カミュがいてサルトルがいました。
哲学者と文学者の違いはあれ、”象徴”ということばで結ばれていたように思います。

ルイ・マル監督の名作「鬼火」の原作者、作家ドリュ・ラ・ロッシェルもサルトルと因縁が深く、詳しい事はわすれましたが、ロッシェルの波乱に富んだ人生にサルトルは欠かすことのできない存在でした。

>フーコー、デリダ、アルチュセール

評論家の蓮実重彦さんの著書に「フーコー・ドゥルーズ・デリダ」というのがあります。

投稿: ten | 2004/06/09 14:06:07

同時代とゆのはかなしいものですね 

投稿: 山下 弘 | 2004/06/23 21:12:11

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