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2004.06.18

ネットの上の差別にサルトルはどう抗うか

インターネットにおける差別や偏見の蔓延について、フランスで会議が行なわれているそうです。(AP 電:記事の日本語版が ITmedia ニュースにあることを COBOO さんという方のブログ経由で知りました。)

インターネットが不寛容な態度を広める媒体となっていることは間違いないけれど、それを規制することは、ことの是非はともかく、技術的に可能かというと当分は絶望的なのではないでしょうか。

記事には、アメリカの司法次官の「ヘイトスピーチを減らす最善の方法は、寛容、理解、そのほかの啓発のアイデアを推進することにより立ち向かうことだ」という発言が引用されています。個人的な見解としては至極まともな言葉だと思いますが、合衆国政府が実際に何をやってきたかを考えれば、言行不一致の誹りをまぬがれることはできませんよね。

先日、サルトルの『ユダヤ人』(岩波新書、青版79)を読み返す機会がありました。1946年に出版されたこの本(翻訳は1956年)の分析は、今でも全く変わらない輝きを持っているように思います。ユダヤ人というアイデンティティが先に存在するのではなく、社会の中の反ユダヤ主義者のまなざしが「ユダヤ人」を作り上げていく。その規定によって当のユダヤ人が束縛されてしまう。この過程は、今でも、そして私たちの国でも、依然として繰り返されています。固陋な人たちというのは、いつでもどこでもいるのだというのも驚きですが、真理に近づく力を持った思想がたかだか半世紀程度の時の流れで「古く」はならないということにも感銘を受けました。

反ユダヤ主義問題の根本的な解決法としてサルトルが提示しているものとは違うので若干の誤解を招くかもしれませんが、差別や偏見と「言論の自由」に関する記述を以下に引用します。(「…識別がつくといわれる」の部分には、多分に皮肉が込められていることも予め指摘しておきます。)

意見を持つということも、政府の葡萄酒醸造政策についてでもあったら、まだまだ承認出来ぬこともない。アルジェリアの葡萄酒を、自由に輸入するか否かについては、それぞれの理由も成り立とう。というのも、この場合は、物品の管理についての見解を述べるのだからである。これに反して、直ちに特定の個人を対象とし、その権利を剥奪したり、その生存を脅かしたりしかねぬ一主義を、意見などと呼ぶことは、わたしには出来ない。反ユダヤ主義者が傷つけようとしているユダヤ人、それは行政法の中にでもあるような、単にその機能によってのみ定義された図形的存在ではない。法典におけるが如く、状況と行為によってのみ規定された存在ではない。それはひとりのユダヤ人、ユダヤ人を父とし、肉体的に、髪の色や、あるいは身なりで、更に、性格によっても、識別がつくといわれるひとりのユダヤ人なのである。こうした反ユダヤ主義は、言論の自由の原則によって保証さるべき思想の範疇にははいらないのである。

2004年 6月 18日 午前 12:28 | | この月のアーカイブへ

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